「ねぇ、シンちゃん♥ い・も・う・と、まだぁ?」
ちん、ちん……
「リナ様。はしたない真似はお止め下さい」
夕食後、箸で食器を叩く山岡リナを窘めるのは保護者役である山岡アヤネの仕事だった。
「そんなに、好き勝手出来ないんだよ。昔と違って警備が厳しいから――施設もエヴァも」
碇シンジは苦笑を浮かべつつ、右隣の席に着いているリナに理由を説明した。
「停電の時程の機会はもうないわ」
山岡ルナもシンジに同意する。
「えぇぇぇっ! それじゃもうダメなの?」
「NERVに隠したまま、エヴァから助け出さないといけないからね。エヴァが外にあって、NERVがエヴァと連絡を取れない程に混乱している時じゃないと……って、あれ?」
「何か思いついたの? シンちゃん」
リナが身を乗り出し、シンジの右腕にしがみつきながら訊いた。
「そう言えば、もう直ぐMAGIが使徒に狙われるんじゃなかったかな?」
「私、それ知らないわ」
「ルナは知らないのかもしれないね。あの……裸でテスト受けたことがあったでしょ?」
「オートパイロット……ダミープラグ」
「あれって、ダミープラグのための実験だったのか……知らなかった。」
それはシンジやルナにとり、悪い思い出に通じる実験だった。
「ダミープラグって何?」
「済まないけれど、その話はしたくないし聞きたくもないわ。嫌悪に値するの」
山岡カホルもまた、ダミープラグに関わった経験があった。
「じゃあ、裸でテストって?」
「何も着ないでエントリープラグに乗って実験するんだよ」
「えぇぇっ! じゃさ、じゃさ、みんな見てるの? シンちゃんのア・ソ・コ♥ きゃあー」
「映像モニタは切ってあるって言ってたけど……」
「そんなの見てるに決まってるじゃん! いいなぁ……。シンちゃん、また一緒にお風呂入ろっ♥」
「あの……リナさん? 話の途中なんですけど」
リナが風呂場に連れていこうとするのを、シンジは何とか押し止めた。
「あっ、そうそう……で?」
「実験の途中で、僕たちがエントリープラグごとジオフロントの湖に投げ出されたのルナは覚えてる?」
「ええ」
「あの時、使徒が攻めてきてたんだ。何故か無かったことにされちゃったけどね。だから、碇のMAGIを調べても記録は残ってない」
「何故、碇君はそれを知っているの?」
「二回目の時はエントリープラグから脱出したから――」
シンジはエントリープラグを抜け出し、NERV本部の様子を見に行った経験を披露した。
「それでは、その時に私がルナ様とリナ様の妹様をお迎えに上がれば宜しいのですね?」
「うん。脱出して、地上に射出されたエヴァの所に行けば助け出せるよ。その時はMAGIも発令所の人たちもそれどころじゃないはずだから……」
『えぇぇっ! また脱ぐの?』
「ここから先は、超クリーンルームですからね。シャワーを浴びて、下着を替えるだけでは済まないのよ」
『何でオートパイロットの実験で、こんなことしなきゃいけないのよー』
惣流アスカ・ツェッペリンも、当然この実験を受けた経験がある。しかし、それでも彼女は文句を言わずにはいられなかった。
「時間はただ流れるだけじゃないの。エヴァのテクノロジーも進歩している。新しいデータは常に必要なの」
口では尤もらしい説明をしているが、赤木リツコの心境は複雑だった。この実験は彼女たちNERV本部の技術部が必要としているのではなく、六分儀司令の指示によりデータの提出だけが求められたものだったからである。データを集めるだけの実験――それを行う人間が彼女であることに必然性の存在しない実験。
っちーん
チルドレンを乗せたエレベータが停止すると、彼らの目の前は通路だった。
『ほら、お望みの姿になったわよ。17回も垢を落されてね』
「では三人とも、この部屋を抜けて、その姿のままエントリープラグに入ってちょうだい」
リツコはアスカの愚痴を聞き流し、次の指示を出した。
『えぇぇぇーっ!』
「大丈夫、映像モニタは切ってあるわ。プライバシーは保護してあるから」
『そういう問題じゃないでしょう! 気持ちの問題よ』
「このテストは、プラグスーツの補助無しに、直接ハーモニクスを行うのが主旨なのよ」
『絶対見ないでよ!』
「ルナちゃんが一番堂々としているのが不思議ですね。先輩」
「もう10年近くもチルドレンとして実験に参加しているはずのアスカと、まるで立場が逆ね」
伊吹マヤの感想にリツコも同意した。
「各パイロット、エントリーの準備完了しました」
「テストスタート」
技術者の報告を受けたリツコが実験の開始を宣言すると、実験の各担当者はそれぞれの役割を遅滞無くこなし始めた。
「テストスタートします。オートパイロット、記録開始」
「モニタ、異常無し」
「シミュレーションプラグ、挿入」
「システムを、模擬体と接続します」
「シミュレーションプラグ、MAGIの制御下に入りました」
「テストは約三時間で終わる予定です」
「気分はどう?」
リツコがチルドレンに尋ねると、それぞれの答が帰ってくる。
『何か違うわ』
『うん。いつもと違う気がする』
『感覚がおかしいのよ。右腕だけハッキリして、後はぼやけた感じ』
「アスカ。右手を動かすイメージを描いてみて」
『はーい』
アスカが返事をすると、プリブノウボックスと呼ばれる水槽に入れられた模擬体――エヴァンゲリオンを部分的に再現したようなモノの右手がピクピクと動いた。
「データ収集、順調です」
「問題は無いようね。MAGIを通常に戻して」
チルドレンと技術部の面々が実験を行っているのと時を同じくして、発令所では予期せぬ問題の発生に頭を痛めていた。
「確認してるんだな?」
「ええ、一応。三日前に搬入されたパーツです。ここですね、変質してるのは」
青葉シゲルは冬月コウゾウの質問に対し、変質箇所のスキャン映像を見せながら報告する。
「第87タンパク壁か……」
「拡大すると、染みのようなモノがありますよね。何でしょうね、これ」
「侵食ですかね。温度と電導率が若干変化しています。最近では無菌室の劣化はよくあるんです」
MAGIのオペレータの一人がシゲルの質問に答えた。
「工期が60日近く圧縮されてますから、また気泡が混ざっていたんでしょう。杜撰ですよ。B棟の工事は」
「ここは、使徒が現われてからの工事だからな」
「無理も無いですよ。みんな疲れてますから」
「明日までに処理しておけ。六分儀が煩いからな」
「了解」
「また水漏れ?」
マヤが電話連絡を受け、その内容を映像で確認しているところにリツコが質問した。
「いえ、侵食だそうです。この上のタンパク壁」
「参ったわね。テストに支障は?」
「今のところは、何も」
「では、続けて。このテストは、おいそれと中断するわけにはいかないの。六分儀司令が煩いし」
「了解。シンクロ位置、正常」
リツコの指示により、一時中断した格好になっていた実験が再開された。
「プラグ深度、変化無し」
「シミュレーションプラグ、模擬体経由でエヴァ本体と接続します」
「エヴァ弐号機、コンタクト確認」
「ATフィールド、出力2ヨクトで発生します」
びーっ、びーっ、びーっ……
誰も現場を見てはいなかったが、ATフィールドが発生したその瞬間に断続する警報音と共にモニタにもALERTの赤い警報が表示された。
「どうしたの?」
リツコが警報の理由を尋ねると、技術者たちからは次々と凶報が伝えられる。
「シグマユニットAフロアに、汚染警報発令」
「第87タンパク壁が劣化。発熱しています」
「第6パイプにも、異常発生」
「タンパク壁の侵食部が、増殖しています。爆発的スピードです」
マヤが報告しながら見ているモニタには、第87タンパク壁のスキャン画像が表示されている。その画像の中では侵食部を表す赤い印が刻一刻と増えていた。
それを確認したリツコが下した決断は――
「実験中止! 第6パイプを緊急閉鎖」
マヤが「はい」と返事をしつつ、手元のスイッチを押すと、第6パイプは閉鎖されるだけでなく、物理的に切り放された。
「60、38、39閉鎖されました」
閉鎖完了の報告が届く一方で、しかし侵食は止まらなかった。
「6−42に侵食発生」
「ダメです。侵食は壁伝いに進行しています」
「ポリソーム、用意!」
リツコの指示が伝わると、格納されていたポリソームと呼ばれる移動式の小型ロボットがプリブノウボックス内に表れた。それぞれのポリソームはレーザーを照射する機能を持っている。
「レーザー出力最大。侵入と同時に、発射」
「侵食部、6−58に到達。来ます!」
その時、技術者たちはリツコの指示に合わせてレーザーを発射するため、第6パイプに視線を集中させていた。しかし――
『きゃぁあああっ!』
異変を感じたアスカの上げた悲鳴がスピーカー越しに響き渡った。
それと同時に、模擬体の手がピクリと動く。
「アスカ!」
「アスカの模擬体が動いています」
「まさか」
アスカの悲鳴を機として模擬体の異常に気付いたリツコとマヤが模擬体の様子を探る間に、先程まで注目していた第6パイプにも、染みが広がり始めた。
「侵食部、更に拡大。模擬体の下垂システムを侵しています」
マヤの報告を受けたリツコは、非常用のレバーを引き、模擬体の腕を爆破することで模擬体本体から分離する。
「アスカちゃんは?」
「無事です」
その直後、実験の様子を見学していた日向マコトがアスカの状態を質問し、マヤはそれに答えた。
「全プラグを緊急射出。レーザー急いで!」
リツコの指示に従い、三本のシミュレーションプラグは実験場から射出された。一方、レーザーもパイプに照射されていたが、それは染みの傍に現れたオレンジ色の壁により弾かれた。
「ATフィールド!」
「まさか」
ふと視線をやると、先程爆破により分離されたばかりの模擬体の腕にも赤い光が広がっていた。
「何だ、これ?」
ぷーっ、ぷーっ、ぷーっ……
「分析パターン青。間違いなく、使徒よ」
マコトの質問にリツコが答えると同時に、警報音が発せられ、非常事態を示すEMERGENCYの赤い文字がモニタに表われた。
『使徒? 使徒の侵入を許したのか?』
発令所に陣取っていたコウゾウは、プリブノウボックスから使徒侵入との電話連絡を受けると、即座に指示を出した。
『セントラルドグマを物理閉鎖。シグマユニットと隔離しろ』
プリブノウボックスに訪れた危機は重大だった。
「ボックスは破棄。総員待避!」
マコトの指示により、技術者たちは慌てて避難したが、リツコは呆然とした様子で目の前の模擬体を見つめていた。
リツコに気付いたマコトが声を掛け、二人が連れ立って必死の勢いで扉を抜けた直後、ボックスに隣接した制御室の扉が閉じるのとほぼ同時に、水槽のガラスは割れ、中の水が制御室にまで氾濫した。
『シグマユニット、Eフロアより分離します。全隔壁を閉鎖。該当地区は総員待避』
館内放送でも、緊急事態を告げている。
「解っている。よろしく」
発令所がプリブノウボックスへの使徒侵入の報を受けたちょうどその頃、六分儀ゲンドウは発令所へのエレベータを降りる所だった。
ゲンドウは発令所の電話を用いて誰かに話を付けると、受話器を置き、指示を出した。
「警報を止めろ」
「警報を停止します」
シゲルがゲンドウの指示に従い警報を止めると、ゲンドウは更に指示を出した。
「誤報だ。探知機のミスだ。日本政府と委員会にはそう伝えろ」
「は、はい」
発令所の職員がようやく落ち着くころには、第87タンパク壁から広がった汚染はプリブノウボックスを完全に飲み込んでいた。
「汚染区域は更に下降。プリブノウボックスからシグマユニット全域へと広がっています」
「場所がまずいぞ」
「ああ。アダムに近すぎる」
オペレータが発令所全体に現況を伝える裏で、コウゾウとゲンドウは小声で会話を交わしていた。その直後――
「汚染はシグマユニットまでで抑えろ。ジオフロントは犠牲にしても構わん」
ゲンドウは耳を疑うような指示を出した。そして、指示が充分に行き渡ったことを確認すると、更なる言葉を発した。
「エヴァは?」
「第7ケージにて待機。パイロット回収次第、発進できます」
「パイロットを待つ必要はない。直ぐ地上へ射出しろ」
オペレータの回答に対し、ゲンドウの指示は発令所の職員を混乱させた。
「えぇっ?」
「初号機を最優先だ。そのために他の二機は破棄しても構わん」
ゲンドウによる更なる指示は、職員の混乱を助長した。
「初号機を……ですか?」
「しかし、エヴァ無しでは、使徒を物理的に殲滅できません」
「その前にエヴァを汚染されたら全て終りだ。急げ」
「は、はい」
ゲンドウの説明には一応の筋は通っていたため、その直後、エヴァンゲリオン初号機を皮切りに、エヴァンゲリオンは地上に射出された。
『シグマユニット以下のセントラルドグマは、60秒後に完全閉鎖されます』
館内放送が緊急事態を告げる中、セントラルドグマのシグマユニット近辺には、加持リョウジの姿があった。
リョウジは自らの目で、視界に広がる使徒の赤い光をみながらひとりごちた。
「あれが使徒か……。仕事どころじゃなくなったな」
リョウジがその場を脱出した後には、彼のいた区域の隔壁も次々と閉じていった。
『セントラルドグマ、完全閉鎖。大深度施設は侵入物に占拠されました』
館内放送がセントラルドグマの完全閉鎖の完了を伝えている裏で、発令所では使徒への対策が練られていた。
「さて……エヴァ無しで使徒に対し、どう攻める」
モニタには使徒周辺の状況を表す模式図がリアルタイムで更新されつつ表示されている。
「ほら。ここが純水の境目。酸素が多くなってる」
「好みがハッキリしてますね」
リツコとマヤが話しているように、模式図の情報からは使徒が純水領域とLCL領域の境目を純水領域に入り込めずにいる状態が見て取れた。
「無菌状態維持のため、オゾンを噴出しているところは、汚染されてません」
シゲルが件の境界部分における状況を説明する。
「酸素に弱いってことかな?」
「らしいわね」
「オゾン注入。濃度、増加しています」
「効いてる、効いてる」
オゾンが追加注入されると、使徒の侵攻が収まる様子が模式図にも表われた。
この場を取り仕切っているのはコウゾウだった。総司令であるゲンドウは着席し、テーブルの上に肘を立ていつものポーズのまま黙って成り行きを見ていた。
「行けるか?」
「ゼロAとゼロBは回復しそうです」
「パイプ周り、正常値に戻りました」
「やはり、中心部は強いですね」
「よし、オゾンを増やせ」
「変ね……」
使徒の様子を見つめながら、異変に気付いたのはリツコだった。
「あれ? 増えてるぞ」
「変です。発熱が高まってます」
オペレータの報告も、使徒の状況変化を伝えた。
使徒により、既に模式図上のLCL領域は完全に占拠されている。
「汚染域、また拡大しています」
シゲルが報告する頃には、使徒はそれまで侵入していなかった純水領域への侵攻を開始しており、みるみる内に勢力を拡大していく。
「ダメです。まるで効果がなくなりました」
「今度は、オゾンをどんどん吸っています」
「オゾン止めて」
「凄い」
「進化しているんだわ」
使徒への対策に追われつつも、マヤとリツコは使徒に関心さえしている。
ぶーっ、ぶーっ、ぶーっ……
突然、使徒の様子を映していたスクリーンがブラックアウトし、同時に警報ブザーが鳴り響いた。
「どうしたの?」
「サブコンピュータがハッキングを受けています。侵入者不明」
「こんな時に、糞ぉ、Dモードで対応」
「防壁を解凍します。疑似エントリ展開」
「疑似エントリを回避されました」
「逆探まで18秒」
「防壁を展開」
「防壁を突破されました」
「疑似エントリを更に展開します」
「人間業じゃないぞ……」
「逆探に成功。この施設内です。B棟の地下――プリブノウボックスです!」
使徒への対策もそこそこに、オペレータたちはサブコンピュータへの攻撃に対応し、その結果、攻撃はプリブノウボックスから行われていることが判明した。
「光学模様が変化しています」
「光ってるラインは電子回路だ。こりゃあコンピュータそのものだ」
プリブノウボックスの様子を伝える映像は、サブコンピュータへの攻撃の主が先程まで侵食を続けていた使徒そのものであることを示唆していた。
「疑似エントリ展開……失敗。妨害されました」
「メインケーブルを切断」
「ダメです。命令を受け付けません」
「レーザーを打ち込め」
「ATフィールド発生。効果無し」
再び、発令所では使徒への対策を次々と打ち出してはいるものの、全く効果が得られない。そんな中、使徒によるサブコンピュータへの攻撃は新たな状況へと変化していた。
「保安部のメインバンクにアクセスしています。パスワードを捜査中。12桁……16桁……Dワードクリア」
「保安部のメインバンクに侵入されました! ――メインバンクを読んでいます。解除できません」
「奴の目的は何だ?」
「メインバスを探っています。このコードは……やばい。MAGIに侵入するつもりです!」
「I/Oシステムをダウンしろ」
「カウント、どうぞ」
「3……2……1」
かちゃり
ゲンドウの指示に従いMAGIのI/Oシステムを停止させるべく、マコトとシゲルはその電源を落すために必要な鍵を持ち正しい手順を踏んだが、目的は達せられない。幾度か同じ手順が繰り返されたが、結果は変わらなかった。
「電源が切れません!」
その裏で、マヤは使徒の侵攻状況を報告している。
「使徒、更に侵入。MELCHIORに接触しました」
『MAGIシステムに侵入者。対侵入者プログラムA−1からA−17までを展開します』
MAGI自身も自らへの攻撃の事実を報告する。
「対侵入者プログラムA−1からA−17まで展開されました」
マヤがそう報告した直後、状況は一変した。
それまで発令所の職員たちを嘲笑うかのように打ち出す対策の尽くを無に帰してきた使徒の侵攻が突然止まり、更には、プリブノウボックス周辺からも使徒の痕跡は完全に消滅していた。
「MAGIの勝利……ということですか?」
「使徒が対侵入者プログラムに負けた――ということね」
「まさにMAGI様々ですね」
「やっぱり、こうなったか……」
シンジは自らの納められたシミュレーションプラグが射出されるGを感じ、行き着くべき所に落ち着いたことを認識するとひとりごちた。
大深度施設から緊急射出されたチルドレンを乗せたプラグは、その時、ジオフロント内の人工湖に浮かんでいた。
それまでに起こった事態は、悲鳴を上げたのがアスカだったことを除くと、全て彼らの予定通りであった。シンジは予定通りにプラグを抜け出し、一先ず様子を探るためにNERV本部へと向かった。
(あれ?)
衣服を身に着けたシンジが発令所に到着した頃には、騒動は完全に落ち着いていた。
「あの、何があったんですか?」
シンジはマヤを捕まえて尋ねた。
「え? ああ、シンジ君。さっきね、使徒が攻めてきたんだけどMAGIに歯向かって返り討ちにあったの! やっぱりMAGIって凄いよね」
マヤが嬉しそうに語る様子を見て、シンジもようやく事態を把握した。
(計画はまたしても失敗か……)
「この対侵入者プログラム、作ったのはマヤ?」
昨日の使徒侵入に伴う一連の騒動が落ち着いた後、リツコは使徒が撃退された原因を探っていた。最中に何が起こっていたのかを知る最有力な術であるはずのMAGIの記録は、ゲンドウの指示により全て完全に消去させられたため、もはや手元には残っていない。
彼女に残された唯一の手段は、使徒侵攻時に展開された対侵入者プログラムから推測することだけであった。
「違いますよ。先輩じゃないんですか?」
マヤはリツコの疑問を否定した。
(となると、母さんか……)
赤木ナオコ――GEHIRNの解体、そしてNERV発足という正にその過渡期に突然姿を晦ましたリツコの母。
「それなら、ソースコードがあるはずね……」
リツコはそうひとりごちながら、端末を操作しファイルを検索した。
「マヤ、母さんの残したソースコードがあったわ。調べてみて」
「はい」
リツコの指示を受けたマヤの作業は速い。
「先輩、A−11以外は全てダミー。全部同じで中身は空っぽです。これからA−11の調査を開始します」
「そう、ありがとう。私も見てみるわ」
彼女らが調査を開始したA−11のソースコードにはメッセージが含まれていた。
それは風変わりな年賀状だった。
明けましておめでとう、リッちゃん。
私がGEHIRNを去った後、あなたがどういう立場に置かれているか、残念ながら私には解りません。
もし、碇所長の計画に付き合っているのなら、こんなこと私が言えた義理でもないけれど、お止めなさい。彼は既に事態の中心にはいません。中心にいるのは――
いえ、あなたにはとっくに解っているはずね――目の前にいるのだから。
これだけは伝えておきます。人類は使徒との戦いに勝ち抜き、サードインパクトは如何なる形を持ったモノも完全に防がれます。それくらいの大きな力が中心にはあります。
実は、あなたはとても微妙な立場にあります。その結果、中心にいる彼らからあなたに直接接近することはないかもしれません。もしあなたが碇所長の計画に付き合っていても、それが成功することはありません。せめて他人を自分の無理心中に引き込むような真似だけはしないで。
彼らに着くにせよ、彼らを利用して裏切るつもりにせよ、覚悟を決めて早めに接近してごらんなさい。彼らもきっと、それを待っているはずよ。それ以外の選択に未来はないわ。
2011年 元旦
赤木ナオコ
「これって――」
(母さんがどこかへ行った後じゃないの)
「マヤ。五年も遅れて届いた年賀状、読んだ?」
「い、いえ……読んでません」
最後が小声になったマヤの返事を聞くとリツコは、更にマヤに話しかけた。
「事態の中心の彼らって誰のことかしらね?」
「え……っと、それは――」
マヤは慌てて自分の口を両手で塞いだ。それに答えることはメッセージを読んだことを白状するようなモノであるからだ。
「構わないわ」
「チルドレン……だと思います」
「碇所長の計画、私の微妙な立場、それに無理心中って、どういうことかしらね?」
リツコの呟きへの答を持つ者は、その場には存在しなかった。
ゲンドウは数人の男だけが存在する暗闇で行われている会議に参加していた。
人類補完委員会の仮想会議。前年となった西暦2015年を総括することを目的としたその日の会議は、既に昨年起こった重要事態である第3から第10までの使徒の第3新東京市への侵攻に関する議論を終え、モニタには次の議題として「第11使徒、本部内直接侵入との流言あり」と表示されていた。
「いかんな、これは」
「早過ぎる」
「左様。使徒がNERV本部に侵入するとは、予定外だよ」
「ましてセントラルドグマへの侵入を許すとはな」
「もし接触が起これば、全ての計画が水泡と化したところだ」
「委員会への報告は誤報。使徒侵入の事実はありません」
委員たちが次々と発言する中、ゲンドウは動揺の欠片すら見せず、そう言い放った。
「では、六分儀。第11使徒侵入の事実はない……というのだな」
「はい」
「気を付けて喋りたまえ、六分儀君。この席での偽証は死に値するぞ」
「MAGIのレコーダを調べてくださっても結構です。その事実は記録されておりません」
「笑わせるな。事実の隠蔽は君の十八番ではないか」
「タイムスケジュールは死海文書の記述通りに進んでおります」
ゲンドウは他の委員の言葉を完全に聞き流した。
「まあいい。今回の君の罪と責任は追求しない。だが、君が新たなシナリオを作る必要はない」
その日の会議でも、委員たちの追求の矛先を納めさせたのは議長であるキール・ローレンツだった。
「解っております。全ては、SEELEのシナリオ通りに」
直後、会議は終了し、暗闇に浮かび上がっていたホログラフは全て消え去った。
先程までゲンドウの直ぐ隣に立ち、仮想会議の様子を眺めていたコウゾウは珍しく席に着き、詰将棋の本を片手に目の前に置いた将棋盤に向かっていた。
ぱちん
コウゾウは盤上に桂馬の駒を打ちつつ、ゲンドウに話しかけた。
「予定外の使徒侵入。その事実を知った人類補完委員会による突き上げか……。ただ文句を言うことだけが仕事の、下らない連中だな」
「切札は全てこちらが擁している。彼らは何も出来んよ」
「だからといって焦らすこともあるまい。今、SEELEが乗り出すと面倒だぞ? いろいろとな」
「全て、我々のシナリオ通りだ。問題ない」
「レイはどうなんだ? 俺のシナリオにはないぞ。あれは」
「……」
未だに綾波レイ亡き後の計画の修正方針を得られずにいたゲンドウは、コウゾウの質問に答える言葉を持たなかった。
「アダム計画はどうなんだ?」
「順調だ。2%も遅れていない」
「ロンギヌスの槍も既に手の内か……」
「あれが無償で手に入った。流れは全て我々に向いている。問題ない」
「――だといいがな」
「あの……先輩。今時の中学生ってお年玉に幾ら包めばいいんですかね?」
「あらマヤ、あなたお年玉あげるつもりなの?」
「少し遅れてますけど、今日は新年のご挨拶という名目で行くんですよ」
「シンジ君やルナさんはね、あなたが100人いても一生で稼ぎきれない程の金額を既に持ってるわ」
「えっ! チルドレンってそんなにお給料いいんですか?」
「当然よ。全人類の内でも彼らにしか出来ない仕事をして、人類という種を守っているのよ。彼らがいなければ、既に人類は消えてなくなってるわ――サードインパクトで」
「そう言われてみれば……」
「名目だけのお年玉に包む金額にも、伝統というものはあるのよ」
リツコはそう言うと、手近なコンビニエンスストアで猫のイラストが描かれた、小さなお年玉袋を購入した。
ぴんぽーん
「誰だろうね?」
シンジたちがリビングでのんびりと寛いでいるところに、来客を知らせるチャイムが鳴った。
「皆さん。改めまして、明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します」
「あ、リツコさんとマヤさん――おめでとうございます」
アヤネに案内されリビングへと通されたのはリツコとマヤであった。
「ご縁――ですか? あまり結びたい縁じゃなかったんですけどね……」
シンジたちが遠慮したにも関わらず、受け取らされたお年玉袋には五円玉が一つずつ入っていた。
「確かに、使徒襲来などがなければ、私たちが知り合うこともなかったわね」
「シンちゃん冷たすぎ」
「それで、今日はどうして?」
「この間、あなたたちの実験中に使徒が来たの――って知ってるのね」
その場の誰一人として驚きを見せないことに気付いたリツコは、気を取り直して続けた。
「結局、MAGIに用意されていた対侵入者プログラムが使徒を撃退したわ」
「へぇー」
「対侵入者プログラムA−11。使徒を撃退したプログラムには私の母さんからの年賀状が隠されていたの。これよ」
シンジたちは、リツコたちが受け取った赤木ナオコからのメッセージのプリントアウトを手渡された。
「やっぱり誰が見ても世界の中心はシンちゃんなのね♥」
「A−11、それに五年遅れの年賀状か。ナオコさんってやっぱりお茶目だね」
シンジは、まとわりつくリナを適当にあしらいつつ、そう言った。
「あなたたち、母さんを知っているのね……。でもお茶目って?」
「第11の使徒」
ルナが言葉少なに答えた。
「確かにあの時、同時に展開された対侵入者プログラムにはA−1からA−17という名前が付けられていた。けれど、A−11以外はダミーだった。あれは、そういう意味だったの……」
「シンジ君。司令の計画って何?」
「マヤさんって、意外に怖い物知らずなんですね」
「私も興味あるわ」
シンジは、使徒やエヴァンゲリオン、そして二つの人類補完計画について二人に語った。
話を聞き終えた時、リツコとマヤは完全に黙り込んでいた。
「僕たちがこれを知っていることを司令たちに知られても、今更彼らに出来ることはありません。使徒を倒せるのは僕たちだけですから。それに、もし僕たちの家族や周りの人たちに危害が加えられたら、僕たちはもうエヴァには乗りません。そういう契約ですしね。ですが、もしあなた方がこれを知ったという事実を彼らに知られたら、あなた方は危険かもしれません。替わりは幾らでもいる――そう考えるでしょう」
結局シンジには解らなかった――リツコが知らない振りをしているのか、本当に知らされていないのか。そのために核心に触れるところまでを語り明かすことはできなかった。
ばらばらばらばらばら……
ヘリコプターで移動中のコウゾウは、ゲンドウに対して愚痴をこぼしていた。
「昨日キール議長から計画遅延の文句が来たぞ。俺のとこに直接。相当苛ついてたな。終いにはお前の解任も仄めかしていたぞ」
「アダムは順調だ。エヴァ計画もダミープラグに必要だと言われたデータは過不足無く、かつ、遅滞無く提出している。SEELEの老人は何が不満なんだ?」
「肝心の、人類補完計画が遅れてる」
「全ての計画はリンクしている。問題は無い」
「レイは? ――まぁいい。ところで、あの男はどうする?」
「好きにさせておくさ。マルドゥック機関と同じだ」
「もう暫くは、役に立って貰うか」
「15年前。ここで何が始まったんだ?」
京都の街を歩きながら、リョウジは自らの疑問を口に出していた。もっとも一人旅の身の上であるからには、それに答えるものは存在しなかった。
線すらも繋がっていない古びた電話機とそれを乗せている事務机が一式。藻抜けの空となった廃工場――そう呼ぶのが相応しい建物にリョウジは潜入していた。そここそが彼の京都旅行の目的地であった。
きりきりっ
ドアノブを捻る微かな音に気付いたリョウジは、自分の気配を隠しつつ懐に手を入れた。
「私だ」
「何だ、あんたか」
リョウジはドアを開けようとしている人物の正体を悟り、ようやく警戒を解いた。
「シャノンバイオ。外資系のケミカル会社だ。九年前からここにあるが、九年前からこの姿のままだ。マルドゥック機関と繋がる108の企業の内、106がダミーだった」
リョウジに話しかけているのは、二匹の犬を散歩させている途中といった風情の中年女性だった。彼女はリョウジの潜む建物のドアを僅かに開いただけでその前の石段に腰掛け、膝の上に雑誌を広げてそれに目を落していた。その女性が建物の中のリョウジと会話を交わしていることは誰にも気付かれていない。
「ここが107個目というわけか」
「この会社の登記簿だ」
リョウジの反応に対し中年女性は膝の上の雑誌のページを捲った。そこに登記簿の写しが挟まれていた。
「取締役の欄を見ろと?」
「もう知っていたか」
「知ってる名前ばかりだしな……。マルドゥック機関――エヴァンゲリオンの操縦者を選ぶために設けられた人類補完委員会直属の諮問機関。組織の実体は、未だ不透明」
「貴様の仕事はNERVの内偵だ。マルドゥックに顔を出すのはまずいぞ」
「ま、何事もね、自分自身の目で確かめないと、気が済まない質でな」
「あら、あなたは確か……」
(やれやれ、今日は予想外の出会いばかりだ)
京都を後にしようと急ぎ足で駅へと向かっているリョウジが偶然出会ったのは、五年前から行方を晦ましていた赤木ナオコだった。
「あぁ、ナオコさんのいぢわるー」
リナは、先日の使徒侵入騒ぎがナオコの仕込んだプログラムの働きにより、予定よりも遥かに短時間で解決してしまったことを嘆いていた。その結果、エヴァンゲリオン零号機に宿る彼女の妹とも言うべき存在の救出計画が未遂に終わったからだ。
「そんなこと言うなよ。ナオコさんだって良かれと思ってやったんだろうから」
「計画はまた失敗。リリンの考えることは本当に解らないものね」
「人生は、ままならないもの」
山岡家ではいつものように、のんびりとした日曜日の午後を過ごしていた。
不満を洩らすリナであっても、零号機の魂の問題は軽々しく扱えるものではないことは理解している。助け出したその存在をゲンドウに気付かれると、彼が計画を修正し、そこに組み込まれてしまう恐れがある。それはリナやルナの正体にしても同じことだった。とはいえ、彼女たちが純粋な人間でないことは、検査などで判明することではない――その点で綾波レイの体とは違っている。シンジも含め、彼らの遺伝情報が人間と同じものを与えていることは既に判明している。魂と呼ぶべきものの成り立ちだけが異なっているのだ。そのため、先日家を訪ねてきたリツコやマヤにもその正体を明かす必要はなかった。それだけは守る必要のある秘密だった。
リナが敢えて不満を口にした理由は、実のところ単なる退屈しのぎであり、皆それを理解している。
ぴんぽーん
「お客さんかな?」
チャイムの音に一早く反応したのもリナだった。
玄関に迎えに出たアヤネがリビングへと案内してきたのはアスカだった。
アスカは緑色のワンピースにポシェットを肩に掛けた装いで、それは決して普段着ではなかった。
そんなアスカの姿に、リナは格好の揶揄いの種を見つけた。
「あ、アスカってば、お洒落しちゃってー。もしかしてデートぉ? でもその割に早いわね。振られちゃったの?」
ごすっ
「またヒカリに頼まれたんだけど、やっぱり退屈なんだもんあの子。またジェットコースター待ってる間に、帰ってきちゃった」
アスカはリナの頭上に拳骨を落してから答えた。アスカとリナはこれでも仲が良い。
「ああ、そんなこともあったね。同じ人だったの?」
「前のことはそんなに詳しく覚えてないけど、最初に会った時の挨拶から遊園地を廻る順番、話の内容、お昼のメニューまで、きっと完全に同じだわ。そう、それこそシナリオ通りよ!」
「それをわざわざ報告しに来たの?」
「違うわ。気分直しにあんたのチェロを聴きに来たの」
「えっ、シンちゃんチェロなんて弾けるの?」
「私、聴いたことない」
「リリンの生んだ文化の極ね。是非聴きたいわ」
アスカの言葉はその場にちょっとした騒動を引き起こしたが、この四回目の人生で、シンジはチェロを弾いていないどころか所有すらしていない。
「今はチェロ、持ってないんだ」
「えぇぇぇ、じゃあアスカだけ? いいなぁ」
アスカは自分だけがシンジのチェロを聴いたことがあるという事実に少なからず優越感を抱き、同じ日の別の思い出を口にした。
「そう言えば、シンジとキスしたのもこの日よね」
むっちゅう
アスカの言葉を聞いた直後のリナの動きは素早かった。周囲の人たちがアスカの告白に固まっている中、アスカを両手で捕まえ、その唇に吸い付いたのだった。
ごすっ
「へっへー。シンちゃんと間接キスしちゃった♥」
アスカから再び貰った拳骨も、まるで効いていないようだった。
「今更何言ってんだか……。ちょっち、お手洗い」
「――とか言って、逃げんなよ」
葛城ミサトはリョウジの言葉に答える代わりに舌を出してみせ、そのまま洗面所へと向かった。彼女は、黒色のノースリーブのドレスに白いハイヒールという装いだった。立ち去った後のカウンター席には、緑色の液体が注がれた背の高いカクテルグラスが残されている。
「ヒールか……」
リョウジはミサトの履く白いハイヒールを感心したように呟くと、リツコに向かって話しかけた。
「何年振りかな? 三人で飲むなんて」
リツコは深緑のドレスに身を包み、アメジストを中心とするネックレスを掛けていた。彼女の目の前には、ほとんど量の減っていないピンク色のカクテルが置かれている。
三人はその日の午後に行われた共通の友人の結婚式の三次会と称して、第3新東京市の街並を窓から望むバーに立ち寄っていた。
「ミサト飲み過ぎじゃない? 何だかはしゃいでるみたい」
リツコはリョウジの質問には答えず、ミサトの様子について自らの考察を述べた。
「浮かれる自分を抑えようとしてまた飲んでる。今日は逆か」
リョウジはそう言うと、手にしたバーボンのグラスに口を付けた。グラスに浮かぶ氷がからからと音を立てる。
「やっぱり一緒に暮らしてた人の言葉は重みが違うわね」
「暮らしてたって言っても、葛城がヒールとか履く前のことだからな」
「学生時代には、想像できなかったわよね」
「俺もガキだったし、あれは暮らしって言うより共同生活だな。おままごとだよ。現実は甘くないさ。――そうだ、これ猫のお土産」
「あら、ありがとう。マメねぇ」
リツコが包みを開くと、中身は猫のレリーフの入った小さなブローチだった。
「女性にはね。仕事はずぼらさ」
「松代、何しに行ってきたの?」
リツコは土産物の包みからリョウジの目的地が松代だったと考え、何気なく話を接いだ。
(リッちゃんは俺が京都に行ってたことを知らない……か)
リョウジの知るリツコは、彼が危ない橋を渡っていることを知っていれば、それに対する忠告くらいは与える人間である。
「たまには仕事もするさ」
「仕事はきっちりするタイプだと思ってたけど?」
「そう言えば、赤木ナオコ博士に逢ったよ。偶然だけどね」
「そう……。母さん、今、松代にいるの。元気だった?」
「二言三言交わしただけだけどね、病気してるようには見えなかったよ」
「お土産――ミサトには?」
「一度敗戦してる。負ける戦はしない主義だ」
「勝算はあると思うけど?」
「ナオコさんにも言われたよ。『あら、あなたミサトちゃんの元彼ね』ってさ……。リッちゃんは?」
「自分の話はしない主義なの。面白くないもの」
「あ、おかえり」
「あんた、京都なんかに何の用があったの?」
化粧室から戻ってきたミサトは、リョウジに尋ねた。ミサトは現在の所属である保安部の仕事柄、リョウジの行動をある程度は把握していた。
「あれ? 松代だよ、その土産」
「惚けても無駄よ。余り深追いすると火傷をするわ」
「真摯に聞いとくよ。どうせ火傷するなら、君との火遊びのが――」
声音を落して言うミサトのその言葉に、リョウジは茶化すように答えた。
「変わんないわね、その軽いとこ」
「いやぁ、変わってるさ。生きるってことは変わるってことだ」
「ホメオスタシスとトランジスタシスね」
ミサトにはリツコの言葉が理解できなかった。
「何それ?」
「今を維持しようとする力と変えようとする力。その矛盾する二つの性質を一緒に共有してるのが生き物なのよ」
「男と女だな」
「そろそろお暇するわ。仕事も残ってるし。じゃあね」
リツコは名残惜し気なミサトとリョウジをその場に残し、一人、バーを後にした。
(加持君は何故京都に行ったことをミサトや私に隠すの?)
(母さんも京都?)
(シンジ君たちも京都から来た――京都に何かあるの?)
二人と別れたリツコの脳裏にはいくつかの疑問が渦巻いていた。
「KEEP OUT」、「立ち入り禁止区域」――扉には、仰々しく警告が書き並べられていた。
その扉の前にこそこそと動く男の姿があった。しかし――
突然男はゆっくりとした動作でその両手を上に挙げる。
男の後頭部には銃口がピタリと当てられていた。
「あぁ、二日酔いの調子はどうだ?」
「おかげでやっと醒めたわ」
「そいつは良かった」
「これがあなたの本当の仕事? それともアルバイトかしら?」
「どっちかな?」
「特務機関NERV特殊監査部所属加持リョウジ。同時に日本政府内務省調査部所属の加持リョウジでもあるわけね」
その男、リョウジの後頭部に銃口を向けていたのはミサトだった。
「バレバレか」
「NERVを甘く見ないで」
「六分儀司令の命令か?」
「あたしの独断よ。これ以上バイトを続けると、死ぬわ」
「六分儀司令は俺を利用している。まだ行けるさ。だけど葛城に隠し事をしてたのは、謝るよ」
「昨日のお礼にチャラにするわ」
「そりゃ、どうも。ただ、司令やリッちゃんも君に隠し事をしてる。それが――」
リョウジは芝居がかった動作で、その手に持ったカードを扉脇のカードリーダに通す。
「これさ」
ぴーっ
カードが受け付けられたことを示す小さな音が鳴った直後、厳重に閉ざされていた扉が開いた。
「これは!」
二人の目の前には、磔にされた白い巨人の姿があった。巨人には上半身だけが存在し、腰の周辺には瘤状の隆起が無数にある。更には人間の下半身のようなものがいくつも飛び出していた。胸には槍が刺さっており、腰からはオレンジ色の体液が垂れ流されている。
「エヴァ? いえ……まさか」
「そう、セカンドインパクトからその全ての要であり、始まりでもある。アダムだ」
「アダム? あの第1使徒がここに? 確かに、NERVはあたしが考えている程甘くないわね」
「あれは第2使徒リリスだそうよ」
リョウジとミサトの二人きりだと思われていたその場に、突然現れたのはリツコだった。
「リツコ、あんた!」
「私もつい最近まで知らなかった。いえ、今でも正式には知らされてないわ。知っていたのはあれがあそこにあるという事実だけ――あの体液がエヴァのプラグに満たされるLCL、使徒の血そのものといって良いわ。ミサトと違って、私にはそれを知らされるべき理由があったというだけ……。ほんと、危うくとんだ道化役をさせられるところだったわ」
新世紀エヴァンゲリオンは(株)ガイナックスの作品です。