新世紀エヴァンゲリオン

〜せめて人間らしく〜

第二部

第十五章 シ者


 青色単眼の巨人が四肢を地に着け、周囲をキョロキョロと見回す様子はどこか獣じみていた。二の腕から肩にかけての特殊装甲は内側から盛り上がった筋肉で弾け飛び、本来隠されるべき素体が外気に晒されている。

ぐるるるるるっ

 響き渡る声にならない唸り声のようなものは、一体どこから発せられているのか……。

 エヴァンゲリオン零号機――プロトタイプとして建造され、その性能面から本来は実戦配備すらされないはずだったその巨人が、今、圧倒的なまでの存在感を周囲に誇示している。

「ちょっと、ルナ。冗談は止めなさいよ!」

 エントリープラグのモニタで異変を見て取った惣流アスカ・ツェッペリンは声を掛けながら弐号機を零号機に近付けた。

ぐるるるるるっ

 零号機の反応は、しかし友好的とはとても言い難い。近くに寄ってくるな、邪魔だとでも言わんばかりに、零号機は四つん這いの体勢から持ち上げた右腕を下へと払い下ろす。

「何よ! やろうっての? はんっ、面白い! あたしだっていつかあんたとは決着を着けたいと思ってたのよ!」

 アスカは零号機との間合いを計りつつ、弐号機で構えを取った。

ぐるるるるるっ

 一方、零号機は僅かながらも自身から距離を取った弐号機に興味を失ったかのように、再びの四つん這い。そして唸り声を上げる度に、その零号機の全身を覆う特殊装甲のどこかに亀裂が走る。上腕部から始まった零号機のこの異変が全身へと行き渡るまでに然程の時間は掛からなかった。

カッ

 零号機の唸り声が収まった瞬間に訪れたのは破壊。

 突如として現れた、零号機を中心とする半球状の白い光のドーム。

 発令所のメインスクリーンにも零号機が中心と思しき白いドームが映っている。

 直前に発生した零号機の神経パルス異常、シンクロ率の異常増大などによる動揺が冷め遣らぬままのNERV本部第1発令所に、続けざまに届く異変。

「くそぉっ! 一体何だって言うんだ」

 作戦課の長である日向マコトが思わず悪態を吐くのも無理はない。

「これまでにない、強力なATフィールドです!」

「光波、電磁波、粒子も遮断しています。何もモニタできません」

 伊吹マヤと青葉シゲルが報告する通り、発令所では零号機の状態を知ることができなかった。本来であれば、アンビリカルケーブルを経由しての通信により電波障害などの悪条件下でも発令所とエヴァとの連絡は確保されている。しかし、白いドームはその頼みの綱、アンビリカルケーブルをも切断していた。

「正に結界か……」

『零号機は? ルナはどうなってるんです? まさか、使徒に乗っ取られたって言うんじゃ……』

 先ほど、時間にして僅か数分前、使徒の存在を示す波長パターン青の消滅により、第16の使徒アルミサエルの殲滅が確認されたばかりの発令所に、地上に残された初号機のパイロット、碇シンジからの焦ったような言葉が届く。

 使徒殲滅の前後から比較的近い位置関係にあった三体のエヴァ。初号機は弐号機と共に白いドームにより弾き飛ばされていた。ドームに巻き込まれた周囲の建築物などは軒並瓦礫の山と化している。

「使徒の殲滅は既に確認されてるわ。零号機の状況は使徒とは無関係のはずよ」

 混乱の中でシンジに応対できたのは、赤木リツコだけだった。

『それじゃルナは? 零号機は? 一体どうなってるんですか?』

 白いドームの中を外から窺い知ることは不可能であり、初号機内のシンジにはもはや零号機の様子も、そのパイロットである山岡ルナの様子も知ることができなかった。

 第2芦ノ湖へのハイキングの帰り、地下にあるNERV本部へと帰還する直前にエヴァと使徒との戦いを地上で眺めていた渚カヲルと加持リョウジが戦況について議論している間に事態は二転三転した挙げ句、使徒はオレンジ色の液体と化し呆気なく消滅した。

「これで終わったと思うかい?」

「ええ、あれはもう消えました」

 リョウジの質問にカヲルが単純な答を返す間にも、事態は動き、何故カヲルがそのように断言できるのかという点について詰問する暇はリョウジにも与えられなかった。

「それじゃ、あれはどういうことだろうな?」

 勝手な思い込みに過ぎないとはいえ戦場から充分に距離を取っているつもりの彼らの耳にも零号機の挙げる唸り声が届く。

「零号機が目覚めたって事なのかねぇ」

 人ならざる身の上であるカヲルにしてみても、現場からの距離、そして零号機の傍の初号機や弐号機の存在により、零号機の様子を完全には把握できないでいた。

「零号機の覚醒……」

「そして解放。零号機はどうやら一人前になったようだよ」

 二人の視界にあった零号機は白いドームに包まれ、もはや視認できない。

(零号機の覚醒と解放。こいつはSEELEが黙っちゃいませんな。これもシナリオの内ですか? 六分儀司令)

「またシナリオから外れたね。とある秘密結社の人たちが煩そうだよ」

 リョウジの心の内とカヲルが口にした言葉、そこには奇妙な一致があった。

 零号機を中心とした白いドームは短時間の内に消滅した。

 発令所のスクリーンに映る現場の映像は、零号機を中心として周囲数100メートルに及ぶ範囲の建築物などが全て吹き飛ばされたほぼ完全な更地。

 零号機は四つん這いの姿勢から崩れ落ちたような体勢でその動きを停止していた。

「ATフィールド消滅」

「零号機との通信回復します。あれ? エントリープラグが射出されてます。零号機は無人です」

「エントリープラグを射出させて、零号機の暴走を止めたのかしら……」

 シゲルとマヤの報告を聞いたリツコが現状について思い巡らせる間に、指揮官であることを思い出したかのようなマコトが改めてMAGIのオペレータたちに確認する。

「零号機は?」

「現在は活動を停止しています」

「よし。シンジ君、ルナちゃんのエントリープラグを拾って撤収してくれ。二戦続けて独りだけ放置じゃ可哀想だからね。アスカちゃんも撤収だ」

「あの……先輩。これなんですけど」

 マコトが指示を出す裏で、マヤは自らの目が信じられないかのように小声でリツコに話し掛ける。マヤの目前にある零号機のエントリープラグ内の映像モニタには、主を失ったルナのプラグスーツだけが漂っていた。

 マヤに促されてモニタを見たリツコもまた、自分の目を疑った。

「ルナさんが裸でプラグの外へ出たという可能性はないのね?」

「はい。ハッチの開閉は記録されていません」

「そう。プラグの中のLCLもそのままだから恐らく間違いないわね」

 リツコにしてみても、パイロットの肉体の消滅という目の前の事態は想像の埒外にある出来事であり、説明の言葉を持たない。

『エントリープラグだけですか?』

 シンジとアスカはルナと零号機の現状を把握しておらず、マコトの指示の意図が理解できない。

「ああ、ルナちゃんは零号機を止めるためにエントリープラグを射出したみたいなんだ」

 マコトもまた、事態を正しく理解してはおらず、シンジへの返答は先ほどのリツコの推測の受け売りである。

『えっ? どこにあるんですか?』

 射出されたはずのエントリープラグは零号機の傍には落ちておらず、周囲は瓦礫の山。一目でエントリープラグの所在を確認することは不可能だった。

「マヤちゃん、プラグの位置は判るかい?」

 動揺を隠せないままリツコの言葉を待つマヤには、マコトの声が届いていなかった。

「ちょっと待って。弐号機も零号機と同じように使徒の侵食を受けたし初号機も直接使徒に触れました。よって、ケイジへの回収前に検査を行います。悪いけど、エヴァは三体共もう暫く地上で待機。プラグの回収も必要ありません」

 マヤに零号機のエントリープラグの所在を答えさせる替わりにリツコが口にしたのは、しかしマコトの意図とは異なる指示だった。

 日本における第16の使徒アルミサエル殲滅の報告を受けたSEELEの幹部たちは、最近になって急増している緊急の会議を開いていた。それは、いつものように薄暗い空間に立体映像のモノリスだけが映し出されている仮想会議。

「遂に第16の使徒までを倒した」

「これで、SEELEの死海文書に記述されている使徒は後一つ」

「約束の時は近い。その道程は長く、犠牲も大きかったが……」

「左様。ロンギヌスの槍に続き、エヴァ零号機の覚醒と解放」

「初号機に引き続き、零号機までもが」

「エヴァシリーズに生まれ出るはずのないS機関。まさか、かのような手段で自ら取り込むとは」

「我らSEELEのシナリオとは、大きく違った出来事だよ」

「六分儀の解任には、充分すぎる理由だなぁ」

「本質を見失ってはいかん。事ここに及んで六分儀ごときに関わり合う意味などないのだ」

 議論が会議への参加を許されていない六分儀ゲンドウの進退問題ばかりに片寄るところを窘めたのは01と記されたモノリス、この会議の議長である男の声だった。

 残る使徒が後一つという現在では、SEELEという立場から見てNERVの存在意義は既に失われつつある。NERVには、彼らの手先として時に目的を隠しつつも様々な実験を遂行させ、その片手間で使徒との戦いをも担当させた。

 シナリオから外れた出来事が、些末な物から重大な物まで多種多様に発生してきたことも事実である。しかし、彼らは初めからゲンドウを信用に値しない人物であると評価していた。今更、会議に参加していない人間を責めたところで、それは弱い者いじめですらない陰口のようなモノであり、時間の浪費に過ぎない。

 また、秘匿組織であるとはいえNERVは国連の直轄機関である。現時点で総司令の人事に口を出すにしても、結果が出るまでには時間が掛かる。その上、最終的にSEELEはNERVを切り捨てるシナリオであるから、今からNERVの組織変更に労力や金銭を掛けることは、それ自体が無駄である。

 ましてシナリオの最終段階、約束の時は近い。

「シナリオの修正を急がねばならない」

「だが、この修正、容易ではないぞ」

「ロンギヌスの槍が失われた今、リリスによる補完は不可能」

「初号機を依り代とするのであれば、サードチルドレンの心を砕いておかねばならない」

「本来のシナリオ通りなら、十年前から準備できていてしかるべきだったが」

「人柱が必要ですなぁ。サードチルドレンに対する」

「そして事実を知る者が必要だ。今度は鈴に動いてもらおう」

「ここから、シンクロ率の異常増大が始まります」

 マヤはMAGIを操作し、使徒殲滅直後の零号機のエントリープラグ内の映像とルナの状態を計る各種センサーによる計測数値の推移を時系列を合わせて表示させた。

「シンクロ率100%を越える辺りから、肉体のアクティビティが徐々に下がっているわね」

 パイロットの消失という重大な事故の発生のため、技術部の特別顧問である惣流キョウコ・ツェッペリンが事故原因の究明とその解決をはかる分析作業の場を仕切っている。しかし、彼女らには本来、原因の追究や対策よりも前にすべきことがあった。

 サードインパクトへと至ったシンジたちの知る過去とは異なり、この歴史では碇ユイが初号機に取り込まれたという事実が存在しないため、エヴァが人間を身体ごと取り込むという可能性は知られていない。また、弐号機をはじめとするアダム由来のエヴァが人間をその身体ごと取り込むことはない。

 作業に参加しているリツコはその立場上、チルドレンをチルドレンたらしめるエヴァのコア製造の過程でチルドレンの近親者の魂とでも呼ぶべきモノがコアに取り込まれ、その肉体が完全な抜け殻となる、あるいは精神汚染と表現されるような半抜け殻状態とでもいうべき状況になるという事実だけは関連する各種データと共に知らされていたが、肉体までもが消滅したという記録は存在しない。これはリリス由来のエヴァが零号機と初号機しか存在しない上に、零号機専属パイロットとしての綾波レイの存在と、初号機に魂が取り込まれている人物がユイであるとゲンドウらが認識していることの特殊性から、これらのエヴァのコアの換装が最初から考慮されなかったことによる。つまり、NERV本部で過去に用意したコアは全てアダム由来のエヴァ専用のコアであるから、過去の記録にはリリス由来のエヴァ専用のコア製造時のデータはない。

 また過去の実積から、魂と呼ぶべきモノが取り込まれたコアが更に二人目以降を取り込むこともないとされていた。

 その結果、NERV本部の技術者の誰にとっても、零号機とルナに起こった現象が何であるのかを推測することは容易でなかった。

「映像にも揺らぎが見える」

 リツコが言うように、シンクロ率200%を越える辺りから、カメラに映るルナの身体が透けているようにも見え、プラグスーツに包まれていない部分の輪郭もぼやけている。

「何か話しているようだけど音声は記録されていないのね?」

「はい。増幅してもノイズばかりで聞き取れません」

「こう映像が揺らいでしまうと、読唇術も使えないわね」

 映像を見ながらマヤと会話をしているキョウコは、実のところ事の真相をシンジから聞かされていた。シンジには昨日戦闘からの帰還前に零号機に近付く機会があり、その際に零号機に入り込んだルナとATフィールドを用いた念話とでもいうべき例の方法で会話を交したのだ。

 この場にいるリツコとマヤは戦闘からその後始末、回収したエヴァの修理と整備の指揮などの仕事に追われて昨夜は帰宅する余裕がなかったが、キョウコは基本的に現場の作業にまでは口を出さないし、それを求められる立場でもないため、適当に仕事を切り上げて帰宅していた。現在行われているような作業にはキョウコも参加するが、戦闘直後の様子から見て作業開始は翌日以降になることが彼女の目には明らかだった。

「そしてこれが400%」

 カメラに映るはずのルナの姿は既になく、映像には漂うプラグスーツだけが映っている。

「400%という数字に大した意味はないわね。個人差みたいなものは当然あるだろうし、状態が突然変化したというわけでもないわ。この事例一つだけでは数値的な議論をするのにも無理があるしね」

「映像とデータから見る限り、徐々に肉体が消失していったと解釈するのが妥当……ということですね」

「LCLの成分分析の結果は?」

「サンプリングされたプラグの中のLCL成分は通常のものと何ら変わりありません」

「そう、ルナさんがLCLに溶けて消えたというわけではないのね……」

「零号機のコアパルスに変化は?」

「シンクロ時の波形に似ていますが、信号レベルだけは大きく異なっています」

「強くなっているのね?」

「はい」

「そこから零号機本来の波形を減算してみて」

「これは……ルナさん?」

 キョウコの指示によりマヤが零号機のコアパルスパターンの分析を進めモニタに現れた波形は、シンクロテストなどで見慣れたルナのパーソナルパターンに酷似しているようにリツコの目には映った。

「現在の零号機のコアパルスは零号機本来のものとルナちゃんのパーソナルパターンを足し合わせた波形を示している」

「何てこと……。まさか、ルナさんは零号機に取り込まれてしまったと言うの?」

「何とも言えないわ。案外、ルナちゃんが零号機を乗っ取ったのかもしれないわよ」

 リツコとマヤの目には、キョウコの表情がどこか楽しげに見えた。

 薄暗く無意味に広い部屋にポツリと置かれた事務用の机。

 天井にはセフィロトの樹。

 そして三人の男。

「いやはや……。この展開は予想外ですなぁ。委員会……いえ、SEELEの方にはどう言訳をつけるつもりですか?」

 NERV本部総司令執務室を訪れている黒の長髪を無造作に後ろで束ねた不精髭の男が机に体重を預けつつ部屋で唯一椅子に座っているサングラスの男に話し掛ける様子は、NERVという組織における上下関係などお構い無しといった風情である。

「零号機は使徒の侵食を受けていた。故に、我々の制御下ではなかった。あれは不慮の事故だよ」

 いつものように説明はゲンドウの右腕たる壮年の男、冬月コウゾウの役割であり、ゲンドウは結論だけを簡潔に述べる。

「よって零号機は凍結。委員会の別命あるまでは、だ」

 ゲンドウは質問者であるリョウジが敢えて言い換えたSEELEの名ではなく、その隠れ蓑たる人類補完委員会の名を持ち出した。それは、ゲンドウの言葉がNERVの公式見解であり、リョウジがSEELEと繋がりを持つことを知った上で、その言葉が正確にそのままSEELEに伝わることを期待しているということの宣言でもある。

「適切な処置です。しかし、フォースチルドレンを取り込まれたままですが……」

「赤木博士がサルベージの準備をしている。我々にできることはそのくらいだよ」


「しかし、自我境界線を失い、エヴァに取り込まれた人間のサルベージなど本当に可能なのかね?」

 リョウジが部屋を去った後、コウゾウは自らの持つ疑問をゲンドウにぶつけた。

「通常の人間であれば無理でしょう」

「サルベージされるのはリリスだと言うのか?」

「第5の使徒による攻撃を受けた後、レイの肉体は二度と覚醒することがなかった。しかし、リリスがそれほど脆弱であるとは考えられない」

「リリスはあの時点で零号機に乗り移っていたということか……」

「あのアンチATフィールドがそれを証明している」

 ゲンドウは第16の使徒アルミサエルがオレンジ色の液体と化して消滅した現象をリリスの化身たる零号機の発生させたアンチATフィールドが引き起こしたと解釈していた。

 戦闘時に使徒を介して精神世界で繋がったとでも言う他のない状況で出会ったという三人のチルドレンの内、シンジとアスカの両方が綾波レイの姿を見たというルナの言葉を聞いたと報告していることもゲンドウの解釈を後押しする。

「我々が早いか老人たちが早いかという勝負だな」

 カヲルだけを対象とした実験が行われなくなり自由な時間を得たカヲルは、暇さえあれば山岡家を訪問するようになっていた。もっとも、それはシンジたちが在宅の時のみに限られている。

「しかしシンジ君。君は案外冷静なんだね」

「どういうこと?」

「山岡ルナ。彼女は零号機に取り込まれてしまった。これは君が怖いと言った突然の別れではないのかい?」

「だって、ルナにはいつでも会いに行けるから」

「死んだわけではない、と? 君は零号機となった彼女という存在が恐ろしくはないのかい?」

「ルナはルナだよ。カヲル君にだって解るはずだよ」

 揺るぎのない口調で答を返すシンジの表情は穏やかで、カヲルにはそれがシンジの本心であると他に理由は無くとも理解できた。

(山岡ルナは零号機と共に永遠に生き続ける。先に消えるのはシンジ君の方か。だが、山岡ルナ……君はそれでいいのかい?)

「あれ? どうしたの? カヲル君」

 突然目を瞑り何かを考え始めたようなカヲルにシンジは声を掛ける。

「やはり君は、好意に値するよ」

 再び両目を開き、シンジの顔を見つめるカヲルの表情はいつもの穏やかな笑顔に戻っていた。

バタンッ

「好きっ「カヲ君ダメェ! シンちゃんにはおさわり禁止ぃってずぅーーーっと前から言ってあるでしょ?」」

 それは、カヲルがシンジの手を取ろうとした瞬間の出来事。自室にいたはずの山岡リナが突然リビングの扉を開いて飛び込んできたのだった。

「そ、そうなのかい?」

「惚けた振りしてもダメなんだからぁ!」

(何故、気付かれてしまったのだろうね? 大体、このレベルのフィールドでもリリンは入り込めないはずなのに……)

 カヲルはドイツの研究所時代に受けたATフィールドの展開実験の中で、人間の用意したセンサーに反応するよりも遥かに低い出力のATフィールドを展開するだけで人間を完全に排斥できるというその効果を正確に知っていた。

「何で? って思ってるでしょう?」

「そう思うのかい?」

「顔に書いてあるもん」

「あはは。お手上げだよ」

「カヲ君がシンちゃんに手を出そうとしてる時ってねぇ、絶対に変な空気が漂ってるの! だから、このリナちゃんにはバレバレよ!」

(変な空気? 山岡リナにはフィールドが見えるのかい?)

「これもリリンの変革なのかい?」

「訳解んない事言って、誤魔化そうとしてもダメなんだからぁ!」

 リナはカヲルに対しそう言い残すと、シンジを引き摺るようにリビングから連れ出す。

 部屋から出ていくリナが足の運びに合わせて口にする「早くっ消毒っ、早くっ消毒っ、ホモがっ移るっ、早くっ消毒っ」などという言葉はカヲルにも届いていた。

「くすっ。訳が解らないという顔をしているわね」

 リナと入れ替わるようにリビングへとやってきたのは山岡カホルだった。

「カホルさんか。ここの人たちは皆僕のことを僕以上に知っているようだよ。本当に不思議でならない。特に貴女は別格さ」

「それは貴方が何も知らないということの裏返しではなくて?」

「そうなのかい?」

「そうよ」

「貴女は僕に足りないものを全て持っているような気がするよ」

「そう?」

「僕は、君に逢うために生まれてきたのかもしれない」

 見つめ合うカホルとカヲル。

 二人の表情には、やはりいつもと同じ穏やかな微笑。

 LCLのプールに全身を沈められた青色単眼の巨人。

 全身に白い包帯を巻き付けられた姿は、その大きさを除けば怪我をした人間そのもの。

 葛城ミサトはその日、保安部の待機任務の合間に零号機のケイジへとやってきていた。

「あのアダムより生まれしもの、エヴァシリーズ。セカンドインパクトを引き起こした原因たるモノまで流用しなければ、私たちは使徒に勝てない。逆に、生きるためには自分たちを滅ぼそうとしたモノをも利用する。それが人間なのね。やはり私はエヴァを憎んでいるのかもしれない。父の仇を……」

ぷしゅっ

 零号機を見つめながら一人思索に耽るミサトの耳に届いた圧搾空気による自動ドアの開閉音。

(何で隠れてるんだろう……私。そんな必要ないのに)

こつこっ、こつこっこつっ

 零号機の修理のためにケイジの片隅に集められた資材の裏に潜むミサトの耳に届いた靴音は二人分。

「間に合うかね。老人たちの準備も、もう終わるぞ」

「間に合わせるのですよ。幸、17番目はまだ行動を起こしていない」

「行動を起こしていないだと?」

「最後の使者」

「最後の使者が17番目そのものだと言うのか?」

「せっかくシンジが我々のために時間を稼いでくれているのです」

「ふぅ。今は静観する時か」

「計画のためには今暫く時間が必要です」

「司令たちもサルベージを急げなんて、随分簡単に言ってくれるものよね」

「司令だって人の子ってことかしら?」

「まさか」

「あの、顧問。サルベージ……本当に実現できると思いますか?」

「自我境界線を失い、エヴァに取り込まれた人間に再びそれを取り戻させる。前代未聞の作業よ。不可能と言いたくはないけど、簡単なはずはないわね」

 自我境界線云々という話は全てキョウコの作り話である。

 シンジから真相を聞いたキョウコは京都の赤木ナオコに連絡し、碇のMAGIからシンジのサルベージを試みた過去のデータなどを入手した。それは現在起こっている出来事に適当な説明をつけるためであった。人類の知識というべきものがシンジの中にあるにせよ、それを上手く用いて適当な説明を用意する能力までは現在のシンジは持ち合わせていない。そこで、その役割は専門家と言って差し支えのないキョウコが担うことになった。それは彼女の立場を考えても適切な判断だった。

 キョウコはサルベージ作業自体を急いで実行する必要はないとシンジに聞かされている。彼らは最初からエヴァへの出入りが自由であることと、シナリオに記述された約束の時までにはもう時間が残されていないことが理由だった。この件に関しては、掛けた全ての労力が無駄になると判っているのだ。

 過去においてシンジが初号機に取り込まれてからサルベージの実行までには一月という時間が掛かった。しかし、それは初号機からユイのサルベージを試みて失敗した過去のデータがあってのことであり、現在とは条件が異なる。当然、一月では足りない。

 この歴史においても、ユイの魂と呼ぶべきモノだけが初号機に囚われたと考えたゲンドウの指示により、残された肉体へそれを呼び戻すというサルベージ作業は何度か行われている。しかし、現実にはユイは初号機に囚われておらず、また、作業が行われたのは初号機の中にあったルナとリナが初号機から抜け出した後であったことから、同じ失敗というデータにしても何の意味もない、見当違いのものである。

「シンジ君も心配でしょうね。もう二週間にもなるのに、毎日零号機のところに通ってるんです」

「何をしてるのかしら」

「いつも零号機を見つめて静かに微笑んでるんです」

「そう」

(何を話しているのかしらね?)

「私たちを……うっく……見掛けても……ひっく……詰ったりもしない……ぐすっ……で」

 真相を知るキョウコが想像を巡らせている目の前でマヤは突然泣き崩れた。

「あらあら、マヤちゃん。あなた、詰られたいの?」

「だって……ぐすっ……だって、何にもしてあげられないんですよ! 使徒との戦いだって任せっきりですし! その上、無理やり乗せたエヴァに取り込まれたなんて!」

「マヤ。そうやって惣流顧問を詰っても何にもならないわよ」

「ふふっ、疲れているのね。最近ろくに休んでないんじゃないの? リツコさんも」

「上からせっつかれてますし、あの子たちをエヴァに乗せると決めたのは私ですから……」

「急いては事を仕損じる、よ。それに、無理をして数日作業が早まっても大した意味はないわ。二人共、今日は定時で上がりなさい。これは命令です」

 定時と言っても今日は夕方からチルドレンのシンクロテストがあり、実験が恙無く終了しても、彼女らが解放されるのは午後9時。それでも、この2週間NERV本部に缶詰になっていた彼女らには充分な休息にはなる。

『ルナ。今日は僕一人だよ』

『他のみんなは?』

『洞木さんのお見送りに行った。ようやく疎開するみたい』

『そう。良かったわね』

『これで一安心だね。学校も少し早いけど春休みってことになったよ。トウジやケンスケも疎開したし、生徒がいなくなったからね』

『家のみんなは?』

『何度言っても京都に帰ってくれないんだよ。危ないのにね』

『リナ……元が私と同じモノとはとても信じられないわ』

『そっちの様子はどうなの?』

『もう落ち着いてるわ。空っぽな使徒の心に触れて不安になっているところにS機関を取り込んで、興奮してしまっただけだから』

『じゃ、そろそろ出る?』

『この子と一緒に出られる時まで待つ』

『そっか。じゃ、約束の日の後になるね』

『ええ』

『大丈夫? 寂しくない?』

『ここは少し寒い感じがする。でも外よりも時間がゆっくり流れているみたいだから、もう暫くは待てるわ』

『ルナはやっぱり強いんだね。僕は……最近はカヲル君が良く家に来るから少しは紛れるけど』

『タブリスは?』

『カヲル君の考えてることは、相変わらず良く解らないよ。でもカホルが上手くやってくれるんじゃないかな』

『あの二人、仲がいいのね』

『うん。カヲル君はカホルが好きみたいだよ』

『タブリスはやっぱりナルシス・ホモなのね』

『そうかなぁ?』

『だって、自分を好きになって追い掛けているのよ?』

『そういうんじゃないと思うんだけどなぁ』

『碇君は心配しなくていいわ。私が守るもの』

 ジャケットを椅子の背もたれに掛けようとしたリョウジが袖口に発見した異物。

(これは……葛城か?)

 机の上にはこれ見よがしに残されたICチップ。届けられたメッセージ。

「ここともお別れか……」

 SEELEからのメッセージが直接届いたその部屋は、彼の潜伏場所としてはもはや不適格である。

 組んだ両足を机の上に乗せ椅子の背もたれに体重を掛けつつ部屋を見回すリョウジ。

 そこは廃墟同然のビルの一室。薄汚れた一対の事務机と簡易ベッド。他には何もない空虚な部屋。机に載ったアルミ製の灰皿に残された吸い殻のみがその部屋で唯一の生活感。

「参ったね、こりゃあ」

 市街地に近く人の間に隠れるような潜伏場所はまだいくつか残されているが、人気が少なくMAGIの監視を逃れやすい郊外の潜伏場所はそこが最後だった。用途に合わせそれらの拠点を使い分けていたリョウジにとって郊外の拠点が失われたことは今後の不安の種である。

 他にいくつかあった郊外の潜伏場所は、爆弾テロ騒ぎや小火騒ぎを起こすために切り捨てざるを得なかった。

(ま、大人の役割は果たせた……かな)

 リョウジは小規模な騒ぎで治安の悪化を演出しつつ、シェルターの避難民には集団ヒステリーを誘うような流言を流していた。決定打となったのは先日の零号機の暴走ではあったが、この半月余りで第3新東京市の住民たちに危機感を植え付け、急速に疎開を進めさせる遠因にはなった。それは小細工にしては充分な効果だった。


――2030に目標をポイントM45へ』

ぷちっ

 指先から発する鈍い音。

 それは指令書代わりのICチップが使命を全うした証。


「さて、行きますか」

 立ち上がったリョウジはジャケットを肩に担ぎ、思い出したように呟く。

「はは、俺も焼きが回ったかな?」

 リョウジはジャケットの袖口に付けられていた小さなボタン状の異物を指先で潰した。

「おやおや今日は一同揃い踏みですか? 熱心なことだねぇ」

 うっすらと微笑みを浮かべたカヲルが周囲を見回すと立体映像のモノリスがカヲルを取り囲むように次々と現れる。モノリスの数は全部で十二。

「それだけ重大な事案ということだよ」

「人は無から何も作れない。人は何かに縋らなければ何もできない。人は神ではありませんからね」

 会話は、何の脈絡もないカヲルの言葉から始まった。

「だが、神に等しき力を手に入れようとしている男がいる」

「我らの他に、再びパンドラの箱を開けようとしている男がいる」

「そこにある希望が現れる前に、箱を閉じようとしている男がいる」

「希望? あれがリリンの希望ですか?」

 普段の作り物めいた微笑を崩し、嘲りの表情をすら浮かべたカヲルの言葉は、しかし何の波紋も起こさない。それぞれのモノリスの言葉は、やはりいつものように酷く散文的だ。

「希望の形は人の数ほど存在する」

「希望は人の心の中にしか存在しないからだ」

「だが、我らの希望は具象化されている」

「それは偽りの継承者である黒き月よりの我らの人類、その始祖たるリリス」

「そして正当な継承者たる失われた白き月よりの使徒、その始祖たるアダム」

「そのサルベージされた魂は君の中にしかない」

「だが、再生された肉体は既に六分儀の中にある」

 モノリスたちが代る代る発するつまらない言葉を聞き流していたカヲルだったが、01の番号のついたモノリスのその言葉だけは耳に残った。

「シンジ君の父親。彼も僕と同じか……」

「だからこそお前に託すのだ。我らの願いを」


「解っていますよ。その為に僕は今、ここにいるわけですから」


「では、何故行動を起こさない?」

「今はまだ、その時ではないからですよ」

「貴様、使徒ならアダムを求めるはずではないのか?」

「どうやら僕にアダムは必要ないらしい。だが、僕の心は別のものを求めている」

「山岡カホルか」

「それもその一部です。ここへ来て僕は自分の無知を知りましたよ」

「生命の実を持つ貴様が知恵を求める、か?」

「まさか。僕は神を目指すわけではありませんよ」

「我らの準備は整った」

「全ての使徒の殲滅がシナリオの定め」

「創造主たる我々に逆らうのか」

(創造主か……やはり、あなたたちは無知だ。そう……僕以上に)

「全てはリリンの流れのままに」

 保安部の待機任務は暇である。

 有事において早急に行動に移る心構えはもちろん必要だが、基本的には待機所で各所からの連絡を待つことが任務である。

 ただ待つ。

 静かに待つ。

 集中して待つ。

 落ち着いて待つ。

 何を待つかと言えば、有事を待つ……のではなく、任務の終了時刻を待つのである。彼らの仕事においては何事も起こらないことこそが最良の結果である。

 そんな待機任務に就いているミサトの耳にはイヤフォン。イヤフォンには彼女が不在の間に録音された盗聴器からの音声が流れている。盗聴の相手は彼女の恋人。彼女は保安部の装備品を個人的に流用しているのだ。

『はてさて……狙いはカヲル君かシンジ君か……いや、これは両方だな』

『しがないサラリーマンの俺には仕事は選べないが、これが最後の仕事か』

『人攫い、それも女子中学生か。薄汚い仕事ばかりの俺にはこれもお似合いか』

『さて、行きますか』

『はは、俺も焼きが回ったかな? ……ガリッ』

 それ以降、音声は録音されていなかった。

がんっ

「あんの馬鹿っ!」

 突然ミサトは立ち上がると机に拳を叩き付け、同じく待機任務についている同僚に指示を出す。いまだに指揮官時代の癖が抜けず、自身の危機でさえなければ自分が動くよりも口の動きが早い。

「チルドレンの所在は?」

「セカンド、サード、フィフスの三人共、それぞれテストで本部に到着済です!」

 指示を受けた側の同僚も慣れたもので、文句も言わずに反応した。

「至急、地上を巡回中の保安部員に連絡! シンジ君の家族、山岡カホルと山岡リナを確保させて。大至急よ。誘拐されるわ! この際、家族ごと保護して本部に連れて来させて!」

「了解!」

「首謀者は……NERV本部特殊監査部所属、加持リョウジ」

 噛み締めるように指示を締めくくるミサトの声はいつになく低いものだった。


(でも、何でこんな時に……加持君)

『はてさて……狙いはカヲル君かシンジ君か……いや、これは両方だな』

「最後の使者が17番目そのものだというのか?」

「計画のためには今暫く時間が必要です」

(計画遂行の時間を与えないために!)

「確か加持さんでしたわね」

「おいおい、もう起きちゃったのかい?」

 薬で眠らせて後部座席に寝かせていたはずのカホルの声が聞こえてきたことにリョウジは僅かに動揺したが、それを隠すように軽い調子で会話を返す。

「くすっ。最初から眠ってなどいないわ」

「狸寝入りだったのかい? そりゃあ驚きだな。ま、それはさておき、一度しか会っていないのに名前を覚えていて貰えたなんて光栄です。姫」

「私に薬は効きませんわ。それで……この車は老人たちのところへ向かっているのね」

「君に隠し事は無理なのかい?」

「いいえ。でも、有り得る可能性の一つとは考えていましたわ」

「それじゃあ、解っていて着いて来たのかい?」

「老人たちの準備はどうなのかしら? いえ、これは終わっていると見るべきね」

「良く解るね。エヴァシリーズは壱拾参号機まで完成したらしい」

「それなら今日、明日中ね」

「今日や明日に、何があると言うんだい?」

「約束の日」

 週一度のシンクロテストが終わったシンジたちチルドレンは、零号機のルナの元へカヲルを案内しようと本部内を歩いていた。時刻は既に午後8時を回っている。

 一同を先導するアスカが敢えて選んだ通り道は、遠回りになる弐号機ケイジの前。

「シンジ君! アスカ! そいつから離れて!」

 ミサトが弐号機ケイジへ駆け付けたのは、丁度アスカの自慢話にシンジとカヲルがうんざりし始めたところだった。

 ミサトは愛銃、45口径のH&K USPを両手で構えている。ミサトの実力からしてまず目標を外さない距離。

「はぁ? 何バカなこと言ってんのよ、ミサト。あんた正気? 今いいところなんだから黙って見てなさいよ!」

「フィフスの少年? 彼、何者なの?」

「確証はない。だが、あるいは……最後の使者」

「最後の使者が17番目そのものだというのか?」

「そいつは! フィフスチルドレンは! 渚カヲルは! 17番目の使徒なのよ!」

ドムッ、ドムッ、ドムッ

 シンジとアスカがカヲルから離れる様子を確認すらせずに、うむを言わさず手加減無しでミサトが発砲したその弾丸は、狙い違わずカヲルへと向かう。

キンッ、キンッ、キンッ

 ケイジに響くかん高い跳弾の音。

びーっ、びーっ、びーっ

 そして、けたたましい警報音。

「ATフィールドが、その証拠よ!」

「そう。君たちリリンはそう呼んでるね。何人にも侵されざる聖なる領域、心の光。リリンも解ってるんだろう? ATフィールドは誰もが持っている心の壁だということを」

「何訳解んないこと言ってんのよ! あんたが人間の振りなんかしてここに潜り込んでいるから、山岡カホルさんが誘拐されたのよ!」

「カホルが?」

「誘拐された?」

「何で?」

「あんたがぐずぐずしている間に、着々と計画とやらを進められるのはゴメンだわ!」

「ミサトさん! あなたが何を言ってるのか僕には全然解らないよ」

「もう少し時間が欲しかったんだけど……本当に残念だよ」

「ちょっと、ミサト! あんた、自分が引鉄を引いたって本当に解ってんの?」

「ええ、引いたわ。私が撃ったのは、使徒よ。人類の敵よ。レイの! 父の仇よ!」

「あんたバカァ? 全然解ってないじゃない!」

 シンジとアスカとミサトの口論に終わりは見えない。


「さあ行くよ。おいで、アダムの分身。そして、リリンの僕」

 口論のすぐ脇でカヲルは弐号機に話し掛けると、その身体を宙に浮かせ、弐号機の沈むLCLのプールとは反対側にある縦穴へと一歩踏み出した。底の見えない縦穴を重力に逆らうようにゆっくりと降下していくカヲルの後を弐号機が追う。

「ミサト! あんたはさっさと戻って戦争の準備しときなさいよ! ちょっと、バカヲル! 待ちなさいよ! あたしの弐号機を勝手に使うのは、このあたしが許さないわ!」

 しかし、カヲルに付き従うように縦穴の降下を始めた弐号機を黙って見逃すアスカではなかった。

びーっ、びーっ、びーっ

 突然の警報音と共に、第1発令所のスクリーンは警告の文字で埋め尽くされた。

「何事だ?」

「セントラルドグマにATフィールドの発生を確認。これは弐号機のケイジです」

 発令所に詰めていたシゲルは、頭上の司令席からのコウゾウの質問に答えると同時に、現場の映像をメインスクリーンに映し出す。

「弐号機なのか?」

「いえ、パターン青。間違いありません。使徒です」

「あれはミサト?」

 警報により発令所へと呼び出されたリツコの目に最初に飛び込んだのは、拳銃を構え、シンジやアスカと口論するミサトの姿だった。

「エヴァ弐号機、起動」

「そんな馬鹿な。パイロットはいないはずよ。まさか、カホルさんなの?」

 スクリーンには現存する全てのチルドレン、シンジとアスカとカヲルの全員が映っている。

「山岡カホルはどうやら誘拐されているようです。保安部がロストして、現在捜索中です」

「なんですって! じゃあ、一体誰が?」

「無人です。弐号機にエントリープラグは挿入されていません!」

 無人の弐号機が起動するという異変にスタッフが動揺する中、スクリーンに映るカヲルは縦穴の降下を開始していた。

「フィフスが使徒だってのか? 何てこった!」

 スクリーンに映る弐号機ケイジ内の人の動きが整理されたその時になって、発令所の人間はカヲルが使徒であることをようやく認識した。

「目標は第4層を通過。尚も降下中」

「駄目です。リニアの電源は切れません」

「目標は第5層を通過」

「セントラルドグマの全隔壁を緊急閉鎖。少しでもいい、時間を稼げ」

 動揺の収まらないスタッフを見かねたコウゾウが指示を出すと、その直後からNERV本部内にはMAGIによる警報が流れ始めた。

『マルボルジェ全層、緊急閉鎖。総員待避、総員待避』


「予想の範囲とはいえ、まさか本当にSEELEが直接送り込んでくるとはなぁ」

「老人は予定を一つ繰り上げるつもりだ、我々の手で」

 指示を出した直後、発令所の上層ではコウゾウとゲンドウが短い会話を交わしていた。


「装甲隔壁がエヴァ弐号機により、突破されています」

「目標、第2コキュートスを通過」

「初号機に追撃させる。いかなる方法を持ってしても、目標のターミナルドグマ侵入を阻止しろ」

 最後の指示を出したのはゲンドウだった。


「もしや、弐号機との融合を果たすつもりなのか」

「あるいは、破滅を導くためかな」

「このあたしがここにいるからには、あんたの好きにはさせないわ!」

 降下する弐号機の左肩にしがみついたアスカはカヲルに牽制の言葉を掛ける。

「君たちには本当に驚かされてばかりだよ。まさか、エントリープラグも使わずに僕がエヴァに同化するのを抑え込むとはねぇ」

「抑え込んでるだけじゃないわ!」

 カヲルの言葉に反応したように、アスカは弐号機にプログレッシブナイフを構えさせ、それを振り抜いた。

ガイーン

 こうして、一枚の装甲隔壁が破られた。

「危ないねぇ。これもリリンの変革なのかい?」

「いいから、そこ動くな!」

 カヲルがナイフの軌道から避けたことで隔壁を破ってしまったアスカは、少々冷静さを失っている。

 そこで再びカヲルは弐号機の制御を試みた。

 それはある種の力比べ。

 アスカとカヲルの力が丁度拮抗しているかのように動きが止まる弐号機。

「遅いな……シンジ君」

 カヲルはそう呟きつつ、再び弐号機から意識を離す。

 突然制御が自分の元に戻ったために勢い余ったアスカにより、再び弐号機はナイフを振り下ろした。

ガイーン

 そうして、また、一枚の装甲隔壁が破られた。


「いた」

「待っていたよ。シンジ君」

「カヲル君!」

ガイーン、ガイーン、ガイーン

 アスカの干渉を受けつつシンジを待つようにゆっくりと降下を続けていたカヲルに比べ、それを追い掛ける初号機は速く、カヲルたちを追い越すと先を塞ぐ装甲隔壁を次々と突破しつつも最下層、そしてその先にあるターミナルドグマへと進んでいく。

「待ち合わせはいいねぇ。リリンの生んだコミュニケーションの極だよ。そうは思わない「あ・た・し・を、忘れるなぁっ!」」

 初号機の登場以来、存在をも無視された格好になっていたアスカが再び弐号機のナイフを振るい、カヲルを追い立てた。

「エヴァシリーズ。アダムより生まれし、人間にとって忌むべき存在。それを利用してまで生き延びようとするリリン。僕には解らないよ」

『エヴァ初号機、ルート2を通過。目標を追撃中』

 エントリープラグ未挿入のまま発進し、アンビリカルケーブルも接続されていない弐号機から発令所の人間が得られる情報は少ない。そのため、現在の発令所から戦況を知る術は、事実上シンジの駆る初号機があるのみであった。

「初号機、第4層に到達。目標と接触します」

「間に合ったか」

 しかし、MAGIとシゲルからの報告により状況を知ったコウゾウが一息吐く間も無いまま、状況は更に変化を見せる。

「初号機、目標を追い越しました! これは……装甲隔壁がエヴァ初号機により、突破されています」

「シンジ……何を考えている」

 ゲンドウには、使徒を見逃し更に奥へと進む初号機の振る舞いが理解できなかった。

『初号機、最下層に到達。目標、及び、弐号機、最下層まで後20』

「あれが……ヘブンズドアか」

 スクリーンに映し出される初号機のカメラからの映像には、エヴァサイズの巨大な扉。

 ターミナルドグマにまで到達した初号機は、そこで反転し、動きを止めた。

 発令所のスタッフが固唾を呑んでスクリーンを見つめる中、MAGIだけは変化する状況を淡々と報告している。

『目標、及び、弐号機、最下層に到達』

ずずぅーん

 カヲルと二体のエヴァがセントラルドグマの最下層へと到達したことをMAGIが報告した直後、突如として発令所にまで届く振動が発生した。

「どういうことだ?」

「これまでにない、強力なATフィールドです!」

「光波、電磁波、粒子も遮断しています。何もモニタできません」

「また結界か」

「目標及び、エヴァ弐号機、初号機共にロスト。パイロットとの連絡も取れません」

 頼みの綱の初号機もまた、現在はアンビリカルケーブルが接続されておらず、この時点で、発令所の人間がATフィールドによる結界の中の状況を知る術は完全に失われた。

 そして更に、全ての事象が彼らの手を完全に離れていることを知らしめるかのように異常事態は続く。

「エヴァ零号機、起動」

「いかん」

 ゲンドウの斜め後ろに控えていたコウゾウが、思わずスクリーンに近付くように二歩三歩と前へ進むが、彼ら発令所の人間にできることなど存在しなかった。

「零号機、マルボルジェへ進入します」

「人の定めか……。人の希望は悲しみに綴られている」

 背後から追い掛けるアスカと弐号機の攻撃を易々と回避しながらも、セントラルドグマ最下層へと到達したカヲルはひとりごちた。その顔からいつもの微笑は消え、明確な表情がない。

 降下してきた通路を抜けたセントラルドグマの最下層にはエヴァですら自由に運動できるほどの広大な空間が広がっており、底面にはLCLを蓄える地底湖のようなものが形成されている。

 その空間を更に奥に進んだ先のターミナルドグマでは、先に到着した初号機がカヲルを待ち受けていた。

「僕を待ってくれる人がいる。こんなに嬉しいことはないよ」

 視界に初号機を認めたカヲルは再び笑顔を取り戻すと、宙に浮いたまま奥へと進む。

「ちょっと! あんた! 何一人で勝手に進んでるのよ!」

 カヲルより僅かに遅れて最下層へ到着したアスカは弐号機の頭に右手、自分の腰に左手をあてた仁王立ちの姿でカヲルを追い掛けた。弐号機もまた、宙に浮いたままである。


 カヲルは初号機の前まで来ると、自らのATフィールドを最大限に展開した。

 ターミナルドグマを包み込むほどに大規模に展開されたATフィールドは周囲に衝撃を与え、岩石質の壁面などが一部崩れ落ちている。同時にジオフロント全体を揺るがす激しい地震。

 自分が到着しても動きを見せない初号機から興味を失ったカヲルは、残念そうな表情を浮かべながら初号機の先に見えるヘブンズドアへと進む。

「待って! カヲル君!」

 初号機の脇を通過するカヲルの頭上から声を掛けたのはシンジ。直立したままの初号機からエントリープラグの一部を外へと排出し、シンジはプラグから身を乗り出していた。

「やぁ、シンジ君。待っていたよ」

 待ち人に向ける笑顔を取り戻し、シンジの声が発せられた方向へと顔を向けたカヲルだったが、そこにシンジはいなかった。

「ルナを待ってたんだけどね、カヲル君が結界を張ってくれたから予定より早く出てこれたよ」

 再びカヲルに声を掛けたシンジは、カヲルの想像とは異なり自分の直ぐ傍から聞こえる。

「シンジ君、君は一体……。脆弱なリリンの体であの高さから降りれば無事では済まないはずじゃないのかい?」

「話は後だよ。さぁ、先にカヲル君の用事を済ませようよ」

「ちょっと、あんたたち待ちなさいよ!」

カッ

 ヘブンズドアへと進むシンジたちの後ろからアスカが声を掛けるのと時を同じくして、結界に干渉したモノがあった。

「ほら、ルナも来たよ」

「お手上げだよ。日本に来てから、君たちには本当に驚かされっぱなしさ」

「暫くはルナも結界を張ってくれる。先に進もう」

「エヴァから降りてしまうなんて、君たちは使徒である僕が怖くはないのかい?」

「エヴァではカヲル君には勝てないよ」

「そうなのかい? ふっ……やっぱり君たちはなんでも知っているんだね」

 あっさりと答を返すシンジの顔には、それでも恐怖の色はない。それはカヲルが初めて会話を交わした時と同じ穏やかな表情。

 シンジに促されたカヲルは、ヘブンズドアの横に取り付けられた電子ロックの入力装置に視線を向ける。ただそれだけで、厳重に閉ざされているはずのドアが開いた。


「アダム。我らが母たる存在。アダムより生まれしモノはアダムに還らねばならないのか……。人を滅ぼしても……」

 シンジやアスカと共にヘブンズドアに守られたNERV本部地下の白い巨人の前までやってきたカヲルは、高度を上げ巨人の顔の前に浮いていた。

 何かを考えるように熱心に巨人の顔を見ていたカヲルは、すぐに表情を変える。

「違う。これは……リリス。そうか、そういうことかリリン」

パチパチパチ……

 その白い巨人の鎮座ます広大な空間に拍手の音。

「そうか、君たちは知っていたんだね。これがアダムではなくリリスだということを」

 カヲルは何の不安の表情も浮かべずに拍手を続けるシンジの傍へと戻った。

「カヲル君だって知ってたはずだよ。老人たちに聞いたでしょ、アダムの肉体は父さんの中にあるって」

「君は、君たちはどこまで知っているんだい?」

「これでカヲル君のシナリオもほとんど終わったってことまで……かな?」

「あんたの一人芝居はここまでよ。この後のシナリオはあたしたちがアレンジするわ」

「初号機からの映像、回復します」

 シゲルが報告すると同時に、ターミナルドグマでカヲルが結界とでも呼ぶべき強力なATフィールドを展開して以降、事実上何の情報も得られず、ホワイトノイズだけが映し出されていた発令所のスクリーンに、ようやく像が結ばれた。

 カメラに映る初号機の右手からは、暴れることなく落ち着いた雰囲気のカヲルが顔を出し、初号機を見つめている。

『ありがとう、シンジ君。弐号機は君に止めておいて貰いたかったんだ。そうしなければ、彼女と生き続けたかもしれないからね』

『カヲルクン……ドウシテ?』

『僕が生き続けることが、僕の運命だからだよ。その結果、人が滅びてもね……。だが、このまま死ぬこともできる。生と死は等価値なんだ。僕にとってはね。自らの死、それが唯一の絶対的自由なんだよ』

『ナニヲ……。カヲルクン、キミガナニヲイッテイルノカワカンナイヨ。カヲルクン』

『遺言だよ。さぁ、僕を消してくれ。そうしなければ、君らが消えることになる。滅びの時を免れ、未来を与えられる生命体は一つしか選ばれないんだ。そして君は、死すべき存在ではない』

 スクリーンに映るカヲルは初号機の周囲を見渡すように首を動かした後に、初号機の左後ろ辺りを暫く見つめると、言葉を続けた。

『君たちには、未来が必要だ。ありがとう。君に会えて、嬉しかったよ……』

 それから数分、スクリーンに映る映像の動きも、初号機が拾う外からの音声も、そしてシンジの声もないままに時が流れる。

 発令所の人間にも、声は出せなかった。

 そして――

ブシュッ

 初号機の右手から、カヲルの頭部が下方へと落下していった。

to be continued...



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