新世紀エヴァンゲリオン

〜せめて人間らしく〜

第二部

第十四章 接触


 第15の使徒アラエルとの戦闘を終えると、碇シンジの駆るエヴァンゲリオン初号機と惣流アスカ・ツェッペリンの弐号機は、通常通りのケージに帰還した。一方、山岡ルナの零号機は使徒に浴びせられた光線による影響の調査を待つため、地上へと残されている。

「ハーレルヤ。ハーレルヤ。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレールーヤー♪」

「アスカ、何だか随分機嫌良さそうじゃない」

 シンジの前を歩くアスカは見るからに上機嫌で、歌など口ずさんでいる。放っておけばその場でスキップでも始めそうな雰囲気のアスカに対し、話し掛けるシンジが後を追う形だ。エントリープラグを降りたシンジとアスカはシャワーと着替えのためにチルドレン控室へと向かっている。

「あったり前じゃない! あの鳥野郎にもリベンジできたし、ファーストにも借りを返したのよ!」

「そっか。良かったね、アスカ」

「ふっふーん♪」


「お疲れ様、シンジ君」

 控室の前のベンチには渚カヲルがシンジたちの帰りを待っていた。

「あ、カヲル君」

「僕は、君ともっと話がしたいな。一緒に行っていいかい? シャワーだよ。これからなんだろう?」

「えっ? あ、う、うん」

「どーしてアンタはそこで顔を赤くしてるのかなぁ? バ・カ・シ・ン・ジ」

「セカンドチルドレン、君も一緒にどうだい?」

「あんたバカぁ?」

「駄目なのかい? 僕には君が羨ましそうに見えたんだけれどねぇ」

「そ、そ、そ、そんなわけ、ないでしょ! ふんっ」

 そう言い残し、どすどすという足音の立つ乱暴な足取りで控室近くの女性用シャワー室へと歩き去るアスカを見て思案するカヲル。

「あれが、照れ隠しというものなのかい?」

「年頃の男の人と女の人は、一緒にシャワー浴びたりしないよ、カヲル君」

「そうなのかい?」


かぽーん

 壁際にはNERVのロゴの付いた風呂桶が積み重ねられ、浴槽の背景には富士山の映像とNERVのロゴが交互に映し出される巨大なスクリーン。シンジとカヲルはエレベータを使って上層へと移動し、NERV内の共同浴場へと来ていた。控室近くのシャワー室はパーティションで区切られた個室であり、いわゆる裸の付き合いには向いていない。

 LCLを流すために頭部から身体の隅々までを丹念に洗うシンジは洗い場に残し、使徒襲来による実験のキャンセルで今日はLCLに漬かっていないカヲルは一足先に湯船につかっている。

「しかし、流石だね。シンジ君」

「えっと、何のこと?」

「戦闘だよ。怖くはないのかい?」

「昔は怖かった。でも、今は怖くない」

「それは、慣れた……ということかい?」

「違うと思う。多分、本当に怖いものは他にあるんだ」

 全身を洗い終え、浴槽へと体を沈めながら答えるシンジ。カヲルからは手を伸ばしても届かない程度の距離をとっている。

「一次的接触を極端に避けるね、君は。怖いのかい? 人と触れ合うのが」

 湯船につかったシンジが腰を落ち着けるのを見てとったカヲルは、そう言いながらシンジへと躙り寄り、言葉を続けた。

「他人を知らなければ、裏切られることも互いに傷付くこともない。でも、寂しさを忘れることもないよ。人間は寂しさを永久に無くすことはできない。人は独りだからね」

「そうだね」

「ただ、忘れることができるから、人は生きていけるのさ」

 突然カヲルに手を握られたシンジだったが、それには特に反応を示さず、天井を見上げる。

「僕には……僕には忘れられないんだよ……寂しいって気持ち」

「常に人間は心に痛みを感じている。心が痛がりだから、生きるのも辛いと感じる。ガラスのように繊細だね……特に君の心は」

「生きるのが辛い……。そうだね、確かに昔はそう思ってた」

「今は?」

「生きることっていうより、親しい人との突然の別れとか、そういうのが怖い」

「生き続ける限り、別れというものから完全に逃れることはできない。人間は脆い生き物だからね」

ざばっ

「やはり君は、好意に値するよ」

 突然湯船で立ち上がり言葉を続けるカヲルに、シンジは記憶にある言葉で付き合う。

「好意?」

「好きってことさ」

『エヴァ零号機、収容完了しました』

「それにしても、ルナが無事で良かったですね」

 戦闘時には発令所でMAGIのオペレータの一人として、主にパイロットやエヴァの状態を観察する役割を担う伊吹マヤは、安堵の表情を浮かべていた。

「零号機もね」

 初号機と弐号機がケージへと帰還した後も地上へと残されていた零号機の無事は、現場へと赴いた技術者たちにより既に確認されている。簡易的な検査では、零号機の変質など深刻な影響も発覚していない。

 ルナの無事はそれ以前に通信で確認されており、身体的あるいは精神的なパイロットの状況を観察するモニタも平常通りの数値を示していた。

 マヤが話し掛ける相手は、NERV本部の技術者を統括する立場にある赤木リツコである。

「といっても、問題は山積み」

「そうね。チルドレンやエヴァにではなく、私たち大人の側に」

 リツコの言葉を補足するのは、アスカと共に来日して以来、技術部の特別顧問として現場から一歩離れた立場で助言を与える相談役的な仕事が主となっている惣流キョウコ・ツェッペリンであった。

 技術部ではこれから第15の使徒アラエル戦に関するレポートをまとめなければならない。同様のレポートは作戦部でも作成されるが、焦点が異なる。技術部によるレポートは主に使徒の分析、対峙したエヴァやパイロットの現状報告や使用した武装の効果など技術的な内容をテーマとする。一方、作戦部によるレポートは使徒襲来時の住人の避難誘導といった行動の記録や作戦行動の反省、新たな武器開発への要求提示などNERVそのものやエヴァの運用面を主たるテーマとする。双方のレポートを合わせたものが、NERVの上位組織である国連へと提出され、今後のNERVの予算獲得の根拠として、あるいは将来の類似災害対策の礎として役立てられると説明されている。

「今回も役立たずだったわね……私たち」

 リツコが自嘲気味に言う。

 技術部の人員が10年以上もの時間を掛けて準備してきたエヴァ専用の武装が使徒を前にして役立たなかったことは、何も今回が初めてではない。第3の使徒サキエルとの戦闘以来、現実的に役立った武器はプログレッシブナイフのみと言っても過言ではなく、衛星軌道から動かない使徒アラエルには、そのナイフすらも届かなかったと言うだけのことである。

「結局、エヴァさえあればいいってことなんですか?」

 マヤの言葉は技術部員だけでなく、NERVの大多数の人間が頭の片隅に持ち続けている言葉を代弁していた。


「まったく、呆れたものね……」

 レポートに記載すべき内容として戦闘中の記録を調査していたリツコたちは改めてエヴァの地力というものを目の当たりにさせられた。

「初号機の投げたプログナイフは、少なくとも音速の数十倍を越えています」

「弾道弾よりも速い。エヴァなら地上から素手で人工衛星を上げられるわね」

 人間用の銃器は弾丸の発射に火薬の爆発力を用いている。航空機の機銃のようによりサイズの大きな兵器でも事情は同じであり、弾丸は発射時に得た初速を元に慣性運動で目標へと飛行する。弾丸や兵器の大きさにもよるが、この種の弾丸に与えられる初速は概ね音速のオーダである。

 推進器を持ち、加速しながら目標へと飛行するミサイルのような兵器では、例えば空対空ミサイルで音速の数倍、大陸間弾道弾で音速の数十倍という速度へと至るが、エヴァが投げただけのナイフはこの大陸間弾道弾よりも更に数倍という速度で慣性運動していた。

 エヴァ用のパレットライフルなどの武装は、その装備の大きさや要求される威力などの観点から、火薬を用いた銃器でもミサイルの類でもないものとして開発された。火薬式の銃器では威力が足りず、第3新東京市の拠点防衛を主目的とするのであればミサイルの発射には兵装ビルを用いれば良く、エヴァを用いる必要性は限りなく少ない。その結果がレールガンという選択だった。

 レールガン自体はこの時代既に原子力空母などで実用化されており、NERVの独自技術という訳ではないが、威力に比例する消費電力や取り回しの不便さから固定兵装としてのみ用いられるのが通例であった。エヴァの基礎体力と第3新東京市がエヴァ運用のために用意した電源系が組み合わされて初めて、パレットライフルという携帯用の兵器が実用化されたのだ。

「こんなの見ちゃったら、パレットライフルなんかお呼びじゃないわね」

「ライフルの弾の代わりに、投げナイフでも製造する方が良さそうね」

「あの槍が作れればベストなんでしょうけどね……」

 戦闘時の興奮や動揺が収まってから改めて考察した、弐号機が投擲したロンギヌスの槍についての動向は、エヴァの投げたナイフどころの問題ではなかった。

「あの槍は特別。どう考えても普通じゃないわ」

 地上から投げて衛星軌道に留まる使徒まで数秒で到達したロンギヌスの槍。

「戦闘中には気付かなかったけれど、こうして改めて見ると非常識にも程があるわね」

 衛星軌道は高度数万キロ、第3新東京市地上からの距離は当然それ以上ということになるが、その距離を槍はほんの数秒で移動した。

「亜光速……というべきか」

「弐号機の力というわけではないでしょうね」

 初号機の投げたナイフの更に千倍という速度を生み出したものが弐号機の力と考えるのは不自然である。

「あの槍も使徒やエヴァと同じく、私たちの知る物理法則から逸脱した存在なのね」

「良くMAGIの照準補正で使徒に命中しましたね」

「全く無意味……だったんじゃないかしら」


「さ、後はルナちゃんに話を聞いてからね」

「あの……顧問?」

 技術部のレポートのためのミーティングに一段落付いたところで、マヤが切り出した。両手で胸にファイルを抱き、上目使いのマヤはどこか不安気な表情だ。

「何かしら? 伊吹さん」

「あの地下の巨人、放っておいても大丈夫なんですか?」

 マヤも大多数のNERV職員と同様、先の戦闘時に初号機がロンギヌスの槍を求めて地下深くへと向かったあの時に初めて白い巨人、第2の使徒リリスの姿を目の当たりにした人間の一人だ。むろんキョウコも初見であり、ミーティングに参加しているメンバーの中で目撃経験を持つ者はリツコただ一人である。

「私は知らないから何とも言えないけれど、きっと大丈夫なんでしょう」

「でも生きてるんですよね……あれ」

 初号機が槍を引き抜いた直後に、自己の体を修復したリリス。それをただの物体と呼ぶことは不可能であった。更に言えば、彼女ら一般職員に与えられている数少ない情報によれば、あの巨人は南極でセカンドインパクトを引き起こした元凶、第1の使徒アダムなのである。不安を感じるのも当然と言える。

「マヤ、顧問はドイツから来たのよ」

「じゃあ、先輩は知ってたんですか?」

「一応……見たことはあるわ」

 リツコが最初に巨人を見たのは旧GEHIRNに入所した直後のことである。それ以来、十年近い年月を経た今でも巨人は同じ場所に留まっている。リツコに言えることがあるとしても、その程度のことである。NERV本部の技術部部長という立場の彼女であっても、第2の使徒リリスであるという巨人の正体すら正式に知らされていない状況では、マヤを安心させるような説明はできなかった。

「ちょっと、アンタ大丈夫なの?」

 ケージに納められた零号機を降りたルナが女子控室に戻ると、シャワーから戻ったばかりで鼻唄混じりに髪を乾かしているアスカがルナに声を掛けた。

「何が?」

「何がって……、アンタあの光を浴びたんでしょう?」

「問題ないわ」

「トラウマとか刺激されたんじゃないの?」

「トラウマ――心的外傷。心理的に大きな打撃を与え、その影響が長く残るような体験。良く解らないわ」

「忘れてた嫌な記憶とか思い出させられて、気分悪かったりしないの?」

「別に気分は悪くない」

「使徒に心の中まで覗き込まれたでしょう? ムカムカしないの?」

「昔の自分を再確認しただけ。私は私。問題ないわ」

「バカシンジに裸を見られるようなもんじゃない! 何とも思わないわけ?」

「それは嫌なことなの?」

「あんたバカぁ?」

「裸を見せると、少し慌てた碇君が見られる。それは楽しいこと」

「はんっ、訊いた私が悪かったわ」

「そう、良かったわね」

「さっさとシャワー浴びてきなさいよ! デブリーフィングが終わらなきゃ帰れないんだから!」

「了解」

ぽたっ、ぽたっ、ぽたっ

「この鼻の奥につーんと来る感覚は……。これが涙。泣いているのは僕? 何故泣いているんだい?」

 使徒との戦闘とその後の雑務を終え、解放されたシンジたちは自宅へと戻り、夕食を楽しんでいた。カヲルが暇を持て余していることを知ったシンジは、カヲルを夕食へと招待。カヲルもまた山岡家の夕食のテーブルに着いている。

「あははっ。カヲ君、山葵入れ過ぎっ」

 カヲルの様子を揶揄うのは山岡リナ。彼女がカヲルを『カヲ君』と呼ぶのは、以前山岡カホルが『渚カヲル』であった頃からの習慣である。

「昔同じ光景を見たことがある。カホルの時と同じね」

「つゆをお取り替えしましょうか?」

 慣れない食事で大量の山葵をつゆに溶いてしまったカヲルの様子を見かねた山岡アヤネの言葉だったが、それはカホルによって遮られた。

「その必要はないわ。カヲル、あなたに正しい蕎麦の手繰り方を教えるわよ」

 蕎麦猪口を片手に持ったカホルはそう言うと一口分の蕎麦を箸で取り、摘まんだ蕎麦の先を少しだけつゆに浸ける。

ずばっ……ごくん

「こうやって、しょっぺぇつゆを蕎麦の先にちょんとつけたら、四の五の言わずにずばっと飲む。これが江戸っ子ってもんよ!」

ずばっ……もぐもぐ……ごくん

「こ、こうかい?」

「駄目ね。全然なってないわ。こうよ」

ずばっ……ごくん

「こ、こうかい?」

ずばっ……もぐもぐ……ごくん

「全然違う。そんなにのんびり咀嚼してたらのど越しを楽しめないでしょう?」

「なるほど、これはのど越しを楽しむものなんだね」

ずばっ……ごくん

「これで、いいかな?」

「そうよ。これが江戸の生んだ食文化の極よ」

 かつての江戸、すなわち東京はセカンドインパクトの結果、海の底に沈んだ。江戸時代からの伝統を受け継いだ老舗と呼ばれる蕎麦屋も今は全て海の底である。もっとも、日本から蕎麦を食べる習慣が失われたわけではない。蕎麦文化は古くから日本全国にあり、例えば第3新東京市に程近い信州などでは現在も蕎麦の生産が盛んである。

 京都の碇本家で生活していた『カヲル』は、失われた江戸風の蕎麦文化をテレビで知り、興味を持った。京都にも蕎麦文化と呼ぶべきものはあるが、それは江戸風のものとは異なる。身近な食文化と異なるものにある種のこだわりを持つのは、道楽あるいは趣味と呼ぶに相応しい。

 そして趣味が高じ、やがて『カヲル』は自ら蕎麦を打つまでになった。つゆもうどん文化に合わせて発展した関西風の色合いの薄いものではなく、香りの強い鰹出汁をベースに色の濃い醤油などで味付けたものを用意している。この日の夕食に出された蕎麦やつゆもカホルの手によるものだった。

「江戸の生んだ食文化の極か……。正しく好意に値するよ。好きってことさ」

「ロンギヌスの槍。回収は我らの手では不可能だよ」

「何故使用した?」

「エヴァシリーズ。まだ予定には揃っていないのだぞ」

「使徒殲滅を優先させました。やむを得ない事情です」

 六分儀ゲンドウはいつも通り、彼にとって現場から遠く離れ安全なところで好き勝手なことを言うだけの存在に過ぎないモノリスたちの言葉を軽くあしらった。

「やむを得ないか……。言訳には、もっと説得力を持たせたまえ」

「最近の君の行動には、目に余るものがあるな」

ぴりりっ、ぴりりっ、ぴりりっ……

「冬月。審議中だぞ。……解った」

 尚も続くモノリスたちの叱責を中断させたのは、インターフォンの呼び出し音。

「使徒が現在接近中です。続きはまた後程」

 ゲンドウは最小限の言葉を発したのみで受話器を置き、モノリスたちに一言残すと足早に会議の席から立ち去った。

「その時、君の席が残っていたらな」

「六分儀。SEELEを裏切る気か……」

 それは第15の使徒アラエルとの戦闘から僅か二日後。立体映像を用いたSEELEの仮想会議の席でのことであった。

「朝っぱらから、第2芦ノ湖までたった独りでハイキング。変わった子ね」

 葛城ミサトが双眼鏡で覗く先には、両手をポケットに入れ、湖面を前に佇むカヲルの姿があった。周囲に人影などは見えず、また、ミサトの観察を妨げる障害物なども存在しない。

 ミサトは保安部に下された監視命令を遂行すべくカヲルをマークしていた。彼女は先日の入院以来、通常のシフトから外れていたこともあり、突然の命令を遂行するための人員として都合が良かったのだ。

 監視されている方のカヲルはと言えば、彼と同時に来日していたドイツからの出向技術者が昨日突然帰国してしまった上に、本部には彼が乗るためのエヴァが用意されていないこともあり、暇を持て余している。その結果がこの長距離ハイキング――ミサトはそう考えていた。

うーーーーーーーーー

「使徒を肉眼で確認……か」

 突如として周囲に鳴り響き始めた警報音に双眼鏡から一旦目を離したミサトは、遠く空の上に使徒の姿を認めた。

『東海地方を中心とした関東、中部全域に特別非常事態宣言が出されました。住民の皆様は速やかに指定のシェルターに避難してください。繰り返しお伝えします――

「使徒襲来にも全く動じる様子はない。肝が据わっているというべきか……一体どういうつもりかしら?」

ぴとっ

「ひゃうっ」

 独りで監視任務をこなしているつもりのミサトの首筋に、突然ひんやりとした物体が押し付けられ、彼女は思わず奇声を発した。

「よっ、葛城。こんな所で仕事か?」

 ミサトの首筋に冷えた缶コーヒーの間を押し当てたのは加持リョウジだった。

「あ、あんたねぇ」

「ほれ、差し入れだ」

「何よこれ?」

「あんパンに缶コーヒーさ。定番だろ? 張り込みには」

「で、何しに来たの?」

 相手がリョウジであることを確認したミサトは、再び双眼鏡を覗く。

 リョウジはミサトの任務を知っていることを隠していない。先程の会話はそれを意味していた。

 ――となれば、リョウジが偶々近くを通りかかり、差し入れを届けただけと考えることには無理がある。NERV本部から若干離れているとはいえ、ここはMAGIの監視範囲。当然ミサトの所在もMAGIの監視下にある。リョウジは任務中のミサトの所在を知った上で、彼女の元へやって来たということになる。

「いや、特には」

「フィフスの少年? 彼、何者なの?」

 惚けて本心をぼかすリョウジに対し、ミサトは声を低くして尋ねた。

「確証はない。だが、あるいは……」

 リョウジは一呼吸置いてから言葉を接いだ。

「最後の使者」

 先日シンジの元を訪れ、SEELEのシナリオの最終段階が近いことを再確認したリョウジは、手持ちの札の大部分をミサトやリツコに明かしていた。それには、彼の入手したSEELEのシナリオや彼が知る限りの人類補完計画の内容なども含まれている。

「そう。残された時間はあと僅かってことか」

「渚カヲルはSEELEが直に送り込んできたチルドレンだ。彼には絶対に何かある」

「それで私たちに監視命令が出てるのね」

 チルドレンに保護の名目で監視が付くのはNERVでは普通のことである。にも関わらず、カヲルについては敢えて特別に監視命令が出ている。これは特異なことだった。

「それに、もっと気にかかることがある。……シンジ君たちだ」

「何?」

「彼らはカヲル君を知っていた。恐らく最初から。あるいは彼が本部に来る前から」

「それじゃ、シンジ君たちはSEELEと繋がってるって事?」

「それはないだろう。少なくともカヲル君の方はシンジ君たちを資料でしか知らなかったようだ。シンジ君たちが一方的にカヲル君を知っている――そんな雰囲気だった」

「で、人類補完計画……どこまで進んでるの?」

「世界七箇所で進められていたエヴァ壱拾参号機までの建造がもう直ぐ終わる」

「最近、随分と金が動いているわね」

「シンジ君たちのおかげで、これまでのNERV本部や第3新東京市の被害は軽微だ。本来予定されていた対使徒戦用の予算の大部分がそっちへ回されてる」

「痛し痒しね」

「エヴァシリーズが完成したら、計画の発動までは秒読みだ。恐らく、第17の使徒を殲滅したら時間はもう残ってないだろう」

「私たちにできることは?」

「生き延びることだけさ」

「通常兵器ではエヴァには勝てない。結局最後まで子供たちに頼らなきゃならないのね……」

「戦自辺りも相当にキナ臭くなってる。最後は人間同士の戦争だ」

 シンジに可能性を示唆されたリョウジは、独自の情報網で第3新東京市周辺の軍組織の動向を調査した。その結果、NERV本部への侵攻が具体化する可能性は否定できなかった。

「ここ最近、工作活動らしきものも活発化してるわね」

 ミサトは第3新東京市郊外で最近になって連続している小火騒ぎや小規模な爆弾テロを話題にした。

 現在のところ犯行現場は人工密集地から離れており、また爆弾テロと言っても、市民の不安を扇るだけの爆竹に毛が生えた程度の愉快犯的な犯行ばかりであることから、本腰を入れた捜査は行われていない。

 警察は一連の使徒戦開始直後の疎開による人口の急激な減少に合わせて希望退職者などを募り、自治体の現状に合わせた規模の縮小が進んでいる。その結果、人的余裕がなくなり、大多数の市民が生活する地域の治安維持で手一杯という現状であった。

 一方、NERV本部には本来犯罪捜査の権限はない上、割くべき人員の余裕もなく、重要な施設やNERV本部に近付けば近付く程に強化されるMAGIの監視能力を過信しているという現実もある。

「気付かれた? いえ、まさかね……」

 リョウジとの会話中も双眼鏡による監視を続けていたミサトがひとりごちた。

 双眼鏡の向こうのカヲルがミサトに視線を向けた――彼女にはそう感じられたのだ。ミサトの持つ双眼鏡は光学ズームとデジタルズームとを合わせて100倍の焦点距離を持つNERV技術部特製の一品。この距離で生身の相手に気付かれる可能性は限りなく低い。

「ふんふんふんふんふんふんふんふんふんふんふんふんふーふふん♪」

 両手をスラックスのポケットに入れて佇むカヲルは、いつものように鼻唄を歌っていた。

 カヲルに同行して来日し、実験漬けのドイツでの日々と変わらない毎日をこれまで強いていたSEELEの技術者も昨日既に帰国の途に着き、現在の彼は束の間の自由を楽しんでいる。

 技術者が突然帰国した理由は彼には明かされていない。必要な実験が全て終わったからなのか、第15の使徒との戦闘を目の当たりにして第3新東京市が現実に戦場であることを理解したことによる恐怖が原因なのか……。そのような些末なことはカヲルの興味の埒外であるから特に詮索もしていない。

 唯一問題があるとすれば、渇望していた時間というものをようやく得られたものの、カヲルの興味の対象であるシンジたちはこの日のような平日の日中には中学校へと出掛けてしまうため、与えられた時間を有効に使えないことだった。

「さて、今日は一体何の用だろうね?」

 SEELEからの呼び出しを受けた時に暇を持て余していたカヲルは、わざわざ郊外まで出掛けることにした。指定された会談の時刻までには数時間の余裕があった。

 カヲルはNERV本部を出て以来、一人の人間――ミサトが遠巻きに後を着けて来ていることに気付いていた。敢えて尾行を撒くつもりはなかったが、かといってSEELEとの会談の席の直ぐ傍に来られることはSEELEの側が許さない。

 会談に影響を与えない尾行者との位置関係を探った結果が、第2芦ノ湖畔に向かうカヲルと遠く離れた車道の脇から彼の背中を監視するミサトという現在の状況である。NERV本部から第2芦ノ湖までカヲルの足で数時間を要したが、その程度のことで彼が疲労を感じることはない。

うーーーーーーーーー

『東海地方を中心とした関東、中部全域に特別非常事態宣言が出されました。住民の皆様は速やかに指定のシェルターに避難してください。繰り返しお伝えします――

 使徒襲来を告げる警報が第2芦ノ湖畔のカヲルの耳にも届いたが、指定された時刻は間近に迫っており、会談の場所を変えるには些かタイミングが悪い。

 ひとりごちるカヲルの口調は、しかしのんびりとしたものであった。

「これは大変なことになったねぇ」

 視線の先には、上空を蠢く使徒の姿。


「お久しぶりです、議長。ご機嫌ですか?」

 避難警報が鳴り響いてから暫くの後、カヲルの目前に立体映像のモノリスが浮かび上がった。モノリスには01という番号が付いている。

「無反応かい? つれないねぇ。こっちは丁度今使徒が来ていてとても怖いんだよ」

「下らぬことは良い。貴様には報告すべき事があるはずだ」

「あぁ、シンジ君たちは本当に素晴らしいよ。僕は今、あなたにありがとうと言いたい。感謝の言葉さ」

「上手くやっておるようだな」

「カホルさんも素敵だ。彼女には何かシンパシーのようなものを感じるよ」

「前のフィフスか……。だが、忘れるな。貴様には使命があるのだ」

「使命ねぇ……そう言えばシンジ君たちは本当に物知りなんだよ。一昨日も江戸の文化についてカホルさんに教わったところさ。リリンの文化は実に興味深いよ」

「例の図鑑についてはどうだ?」

「詳しくは訊いてないけど、彼らは最初からあれを知っていたようだよ」

「そうか」

「それにあなた方のシナリオも良く知っている。本当に博識だよ」

「ロンギヌスの槍。六分儀が勝手に使うのを黙って見逃したのは何故だ?」

「何かできたとでも言うのかい? 僕はただのチルドレン。乗るエヴァもないんだよ」

「だが、何もしなかったのは事実だ」

「あの時は槍が唯一の手段だったと思うけどねぇ」

「だが、シナリオから外れた事態だ」

「あなた方が持ってる槍のコピーでもあれば別だったのだろうけど……。大体、アラエルがあそこに現れることはあなた方だって知っていたことでしょう? 図鑑に書いてあったはずだよ」

「我らの失策とでも言うのか?」

「違うのかい?」

「ふん。まぁ良い。貴様は自分の役目を忘れるなよ」

「解っていますよ」

 目前からモノリスが消えた後、カヲルは背後を一瞥するとNERV本部へと歩き始めた。

「さて……僕も帰らないと。外は危ないからねぇ」

「目標接近、強羅絶対防衛線を通過」

 使徒の侵攻状況を発令所全体へと報告したのは、使徒迎撃時にMAGIのオペレータを務める職員の一人である青葉シゲル。

 NERV本部第1発令所では今日も着々と使徒迎撃の準備が進められている。

 メインスクリーンに映るのは使徒の拡大映像。それは小さな輪が繋がって出来た紐が大きな輪を形作っているなんとなくフラクタルで白く発光する異形のモノ。

 スクリーンに映る姿が刻一刻と大きくなる様子は、上空の使徒がNERV本部方向へと着実に侵攻してきていることを意味する。

「エヴァの発進準備は?」

 作戦行動の指揮を執っているのは日向マコトである。彼が作戦部のトップとなってからの使徒襲来もこれで十体目となり、貫禄がついたとまでは言えないものの経験からくる落ち着きのようなものは少なからず見て取れる。

「零号機、初号機、弐号機、全て順調です」

 エヴァ各機の状況を報告するのはいつも通りマヤの仕事だ。チルドレンは今日も中学校へ登校していたため、招集は使徒発見後のことだった。それでも、非常時にチルドレンを輸送する保安部やエヴァの発進準備を進める現場の技術者たちの練度が繰り返される実戦の中で充分に高まっていることもあり、チルドレンが本部に常駐していないという事実それ自体が不都合の原因となったことはない。

「目標は、大涌谷上空にて滞空。定点回転を続けています」

「目標のATフィールドは依然健在、やはり通常攻撃は無意味か」

 兵装ビルからの対空ミサイル攻撃などもマコトの指示で既に行われたが、やはりと言うべきか効果はなく、使徒は反撃する素振りすらも見せていない。

「目標のパターン、青からオレンジへ周期的に変化しています」

「どういうことだ?」

 報告に疑問を感じたマコトが確認を取るが、マヤの答は芳しくない。

「MAGIは回答不能を提示しています」

「答を導くには、データ不足ですね」

「ただ、あの形が固定形態でないことは確かだわ」

 リツコも判断を保留し、当たり障りのない推論だけを述べた。怪獣図鑑によると、この使徒はエヴァとの物理的融合を狙うモノであるらしいがそれ以上の詳細は不明である。

 マコトも同じ情報を共有しているが故に、安易にエヴァを出撃させることは躊躇われる。

「こちらから先に手は出しにくいな……」


「エヴァを出撃させろ、日向一尉。何をしている?」

「りょ、了解」

 前回の使徒との戦いと同じように、打つべき手が見つからないまま時が過ぎていきそうな雰囲気の中で事態を動かしたのは、やはりゲンドウだった。

『地上に出たら、直ぐにリフトオフしてよね! 身動きが取れない内にみすみすやられるなんて願い下げよ!』

 作戦の説明もないままに出撃命令の出された三体のエヴァの内、エヴァ弐号機からアスカが通信で発令所に希望を伝える。

「解った。マヤちゃん、よろしく頼むよ」

「はい」

「今のところ向こうも様子見といったところだ。極力接近戦は避けて、目標の情報を集める時間を稼いでくれ」

『『『了解』』』

 三人のチルドレンからの返事を待ち、マコトは命令した。

「エヴァンゲリオン発進!」

「よっ! 乗ってくかい?」

 ミサトと別れ、自分の車でNERV本部方面へと帰還の途に着いていたリョウジは、途中で車道脇の歩道を歩くカヲルに声を掛けた。むろん、リョウジは初めからそのつもりで車を走らせていたのだ。

 ミサトはカヲルを尾行するために少し離れたところで待機している。リョウジの行動は彼の独断によるものである。

「そうだね、お願いするよ。のんびり歩いていたらシンジ君たちの活躍を見逃してしまうからねぇ」

 カヲルが助手席に乗り込むと、リョウジは直ぐに車を出した。

「いや、せっかくの散歩中に災難だったな」

「これも僕の役目ですから」

「役目?」

「話し合いですよ。シンジ君曰く、とある秘密結社の人と」

「良いのかい? そんなこと俺に話して」

「駄目なのかい?」

「さあ? 俺には何とも言えんが……」

「そういうものなのかい?」

「決めるのは君自身だ」

「それなら問題ないよ。僕には秘密にする必要性が感じられないからね」

「だが、相手もそう思ってくれるとは限らないぞ」

「議長はそんなこと気にしないよ」

 カヲルの会談の相手がSEELEのトップであったことを知ったリョウジは、一瞬言葉を忘れた。SEELEのスパイという立場をも持つリョウジではあるが、それは所詮彼らの道具。当然、トップレベルの人物たちと直接の面識は持っていない。

「それに僕が彼らの知り合いであることなど、NERVのトップは初めから知っているはずでしょう。どこにも秘密などありはしませんよ」

 説明されてみればリョウジにも理解できる。彼自身はトリプルスパイという立場もあり、実際NERV関係者には、彼がSEELEとの関わりを持っていることを隠し続けている。しかし、カヲルにはそれを秘密にすべき相手が存在しないのだ。

ビーッ、ビーッ、ビーッ

 低い警報音と共に地上に射出され、事前の要請通り速やかにリフトオフされた三体のエヴァは、互いに付かず離れずの距離を保ちつつ、使徒の出方を伺っていた。

 エヴァは前方に初号機と弐号機、後方に零号機といういつもの布陣。

 使徒は射出直後の無防備なエヴァを攻め立てることはなかった。そのため戦場は膠着状況に陥っている。この使徒もまた上空にあり、地上のエヴァからは手出しができないのだ。

 過去においてシンジたちの経験したこの使徒との戦いは、常に綾波レイが零号機に使徒を引き込んだ挙げ句の自爆で幕を閉じている。シンジたちが何度映像を見ても明確な弱点や攻略法は見当たらない。どうにもならなければ、自爆もやむなし――それが彼らチルドレンの結論だった。

『良し! みんな、暫く様子を見るぞ』

「いえ、来るわ」

 エヴァの出撃後も上空で回転運動を続ける使徒の姿を確認した発令所から通信が入るが、ルナにだけは使徒の動きが読めていた。

 零号機の自我の存在や、第12の使徒レリエルから弐号機が出てくる瞬間など、神となった後のシンジでも気付かない事象をルナは一早く感知する。彼らの中で、何故ルナだけが特別なのか――それは、誰にも答えられない疑問だった。

 ルナが言葉を発するのと時を同じくして上空で回転していた輪が一点で切れ、一本の紐状のモノと化した使徒は、上空で全身をウネウネと蠢かし始める。

 形態変化の後、時を待たずして紐状の使徒の両端は各々別のエヴァに襲い掛かった。


「こんのーっ! このっ! このっ! このっ! このっ!」

 使徒の一端は初めに弐号機を襲撃したが、弐号機の展開するATフィールドと良く訓練されたソニックグレイブ捌きにより、攻めあぐねる結果となった。

「こらっ! アンタっ! 来んな! どっか行け! 気持ち! 悪いのよっ!」

 応戦している弐号機の方も状況が芳しいとは言えない。ATフィールドで使徒の突撃を逸らし、それを逃れて進出してきた時にはソニックグレイブで叩き返すということを繰り返すことで、不規則な使徒の攻撃を防いではいるものの、反撃の効果も全く認められないのだ。

 現時点ではほぼ互角。この状態が長引けば、アスカが先に音を上げる可能性は否定できない。


 使徒の残る一端は初めに初号機を襲撃した。しかし初号機の展開するATフィールドは弐号機のものに比べても段違いに強力、かつ、展開範囲も広く、使徒を全く寄せ付けない。

 結局こちら側の端は何度かATフィールドの突破を試みたのみで、早い段階で攻撃目標を零号機へと切り替えた。


 零号機を狙った使徒は呆気なく零号機本体へと到達する。零号機の展開するATフィールドは弐号機に比べても脆弱で使徒の突進を止めるには力不足である上に、手にしている武装はパレットライフル。初めから近接戦闘には向いていないのだ。

「ルナ!」

 初号機への攻撃が止んだ直後、自分の脇を通り抜けて行った使徒が矛先を変えていたことにシンジが気付いた時には、既に使徒は零号機に接触していた。

「エヴァ三機、地上に展開しました」

「目標、依然上空で定点回転を続けています」

 報告を受けたマコトは出撃したエヴァにすかさず指示を出した。

「良し! みんな、暫く様子を見るぞ」

 エヴァの出撃直後も戦況は膠着状態が続いているように、発令所からは見えている。

『いえ、来るわ』

 しかし、自らが出した指示への予想外の反応の直後、マコトの視界に飛び込んできたのはメインスクリーンに映る使徒がその形態を変え、相手を威嚇するかのように白く輝く体躯を空中でうねらせる姿だった。

「くっ、速い!」

 突如攻撃へと行動を移した使徒の動きはカメラで追いきれないほどの速度。しかし幸にも、矛先となっている初号機と弐号機は使徒の攻撃を巧く捌いている。

「マヤ、コアは見つけられる?」

 戦闘指揮官であるマコトが図らずも始まってしまったエヴァと使徒との近接戦闘の動向を見守る裏で、リツコは別の指示を出した。これまで現れた大多数の使徒と同じように、この使徒にもコアと呼ばれるものが存在するのであれば戦闘の方針は明確に単純化できる。

「ちょっと待ってください……駄目です。使徒のエネルギー分布は全体で一様。コアらしきものの存在は確認できません」

 これまでコアの存在が不明なまま殲滅された使徒は、第11の使徒イロウル、第12の使徒レリエル、第13の使徒バルディエル、そして、第15の使徒アラエルの四体。

 イロウルは赤木ナオコが用意したMAGIのプログラムにより撃退された。このプログラムは、碇のMAGIに残されていた――サードインパクトへと至る過程でリツコとマヤが作りイロウルを撃退した――自滅促進プログラムを基に、ナオコがMAGIの防疫機能として作り替えたものであった。イロウルが自己進化という性質に特化し、コンピュータを模した形態へと変化した使徒であったが故に効果をもたらしたプログラムは、目前の使徒には通用しない。

 レリエルは、自ら作り出し様々なものを引き摺り込んだ空間内で中に飛び込んだ弐号機がATフィールドを展開しただけで殲滅されたとされているが、これはアスカの証言のみによる解釈であり外界での観測結果からは何の情報も得られていない。使徒に侵入することが可能であれば参考にはなるだろうが、現時点では状況がまるで異なっている。

 バルディエルの事例に至っては、カホルの「お説教したら大人しくなった」という証言が残されているのみである。

 そして、前回の使徒アラエル。これは使徒が衛星軌道から動かなかったという事情から結果としてコアの存在が確認できなかっただけであり、実際には存在した可能性も否定できない。とはいえ、もはやNERV本部にはアラエルの殲滅に用いたロンギヌスの槍が存在しないため、現在の状況に当て嵌める意味はない。

「状況は最悪に近いわね」

 過去の事例を参考にできず、目前の使徒の攻略のヒントすら見つからない状況では、リツコの言葉も悲観的にならざるを得なかった。


 リツコが現在目の当たりにしている使徒について考えに耽る間にも、戦況は刻々と変わっていく。

「目標、零号機と物理的接触」

 シゲルの報告通り使徒が零号機の腹部に接触していることは発令所のスクリーンからも見て取れ、初号機や弐号機とは異なる苦境に陥った零号機の状態を不審に思うマコトは、疑問を口にする。

「零号機のATフィールドは?」

「展開中。しかし、使徒に侵食されています」

「零号機と初号機、弐号機ではATフィールドの出力に差があり過ぎるものね……」

 マヤからマコトへの返答にリツコは自身の推論を付け加える。零号機はアンビリカルケーブルから供給される電力、初号機と弐号機は内蔵されたS機関により稼働している。この差異がATフィールドというエヴァの持つ使徒の亜種らしい能力に現れていた。

「危険です。零号機の生体部品が侵されていきます」

 零号機の状況を観察しているマヤが徐々に悪化する状況を報告した時には既に、スクリーンに映る零号機にも、そして、エントリープラグ内を映すモニタのルナにも侵食の影響が顕れていた。

「シンジ君! 急いでルナちゃんの救出を!」

 悪化の一途を辿る危機的状況に対し、マコトが出せた指示は作戦も方法もなく願望に近いものだった。弐号機は今も尚、使徒のもう一端との攻防を繰り広げており、救出の機会は初号機にしか存在しない。

「目標、更に侵食」

「危険ね。既に5%以上が生体融合されている」

 零号機は既にその場に背中から倒れ込み、なすすべなく侵食を受けている。零号機の体表面には侵食を受けている部分を中心として葉脈状の筋が浮き出ており、それが侵食の影響であることは疑いようがない。その上、使徒がエントリープラグ内に侵入している事実がないにも関わらず、パイロットであるルナの体表面にまで零号機の表面と同じような筋が浮き出ており、表情には苦痛の色が見えた。

『誰? 私? エヴァの中の私?』

 それは使徒の侵食を受ける零号機の中でルナに訪れるかつてと同じ感覚。

『いえ、やっぱり私以外の誰かを感じる』

 それはルナの心に直接伝わる異質なモノのイメージ。

『あなた誰? 使徒? 私たちが使徒と呼んでいるヒト?』

 そのモノはプラグスーツを着たかつての綾波レイの姿を形取り、イメージの中に在った。

 そして、LCLのような色の着いた水面に両足を浸したそのモノは、イメージの中で宙に浮かぶルナを上目使いで見つめつつ言葉を掛ける。

『私と一つにならない?』

『いいえ、私は私。あなたじゃないわ』

『そう、でもダメ。もう遅いわ。私の心をあなたにも分けてあげる。この気持ち、あなたにも分けてあげる。痛いでしょ? ほら、心が痛いでしょう?』

 そのモノが形取るレイに似たイメージの口元は両端がついと持ち上がり、どことなくサディスティックな笑みを浮かべている。

『痛い? いえ、違うわ。寂しい。そう、寂しいのね』

『寂しい? 解らないわ』

『独りが嫌なんでしょ? 私たちは沢山いるのに、独りでいるのが嫌なんでしょう? それを、寂しい……と言うの』

『それはあなたの心よ。悲しみに満ち満ちている。あなた自身の心よ』

『そう? そうかもしれない。いえ、昔は確かにそうだった。でも今は、それだけじゃないもの』

「ルナ、大丈夫? ちょっと我慢して」

 丁度その時、現実世界で零号機の救出を試みる初号機のシンジからの言葉が掛けられた。

『ほら、これが碇君。私と一緒にいてくれる。私が一緒にいたいヒト』

 直後、イメージの中のレイに似た姿のモノとルナとの距離が突然引き離され、ルナの視界にはエントリープラグが戻る。

 それは初号機が零号機の腹部に接触していた使徒を引き剥がした瞬間の出来事。

「あぁっ」

 初号機の行動は些か強引なものではあったが、幸にも零号機に重大な支障は生じていない。しかしルナは正にその瞬間、言い知れない喪失感を味わった。

 一方、零号機から引き剥がされた使徒は逃げるように初号機から距離を取る。シンジの経験した過去では、使徒は自らを掴む手から初号機との融合をも図っていたものだが、この時の行動はかつてのものとは違っていた。

 その頃、NERV本部へと向かうリョウジの車は、エヴァと使徒との戦闘が助手席のカヲルの視界に入る距離まで近付いていた。

「苦戦しているようだね」

「やっぱり経験の浅いルナちゃんが一番大変そうだな」

 彼らの視線の先には使徒からの侵食を受ける零号機。

 リョウジも車を停め、戦況を眺めていた。

 地下にあるNERV本部へと通じるカートレインに一旦乗ってしまえば戦闘の様子を知ることはできなくなる。後から映像で確認することができるとはいえ、生の臨場感には敵わない。

「零号機だから苦労しているのさ」

「そういうもんなのか? 俺はエヴァには乗れないから良く解らないんだが……」

「僕にもあれは動かせないからね。実際、彼女は良くやっていると思うよ」

「お、救出成功か? 流石はシンジ君だな」

「格が違うねぇ。ほら、脅えているよ」

「脅えてる?」

「そう。あれは恐怖を感じているのさ」

「一旦距離を取って体勢を立て直すとか、そういうんじゃないのかい?」

「見ていれば解るよ」

「このこのこのこのぉっ!」

 戦闘開始以来、弐号機は未だに鍔迫り合いを続けていた。

「ちょんちょんちょんちょんとぉっ!」

 エヴァへの物理的接触を図る使徒の攻撃は紐状の体の端を目標へと突きつける、言わば点の攻撃。

 突撃してくる使徒に対し展開したATフィールドを叩き付けるようにすることで、弐号機は使徒の出鼻を挫くことができる。しかし、弐号機のATフィールドはそれだけで使徒の攻撃を完全に防ぐところまでには至らなかった。

「気持ち悪いのよっ! アンタはっ!」

 面として展開される弐号機のATフィールドと点でその突破を図る使徒。

 弐号機がATフィールドを叩き付ける衝撃で使徒を弾き返し損なうと、ATフィールドに取り付いた使徒は極短時間でそれを侵食、突破して弐号機に迫る。

「こぉの、くっつき虫がぁっ!」

 しかし、ATフィールドを突破してきた使徒は、弐号機が手に持つソニックグレイブでなぎ払うように撃退される。

 それは幾度となく繰り返された光景。

 戦闘開始から早数分。途切れることのない使徒の一撃離脱戦法はアスカに精神的な疲労を蓄積させていく。現在のところ、ようやく使徒の攻撃にも慣れて危なげなく攻撃を捌いている弐号機だが、相手に効果的な攻撃を加えることもできないでいるため、戦況は使徒とアスカの根比べとでも言うべき状況となっている。


 しかし、膠着した状況に変化を齎したものはアスカの精神疲労でもなければ使徒の油断でもなかった。

 初号機により零号機から引き離されたばかりの使徒、すなわち紐の反対側の端が突然攻撃の矛先を弐号機へと変えたのだ。


「アスカ!」『アスカちゃん!』

 初号機のシンジや発令所のマコトがアスカに注意を喚起する声を掛けた時には、弐号機は既に使徒からの物理的接触を許していた。

 それまでの大凡互角と言うべき状況から一転、攻撃の手数と攻め口を倍に増やした使徒にとって、それは容易なことだった。

「はうぅっ」

 弐号機の脇腹への物理的接触を果たした使徒は、即座にエヴァへの侵食を開始する。

 侵食を受け始めた弐号機のアスカは、その瞬間、身体全体に痺れるような感覚を味わった。


「惣流アスカ・ラングレーです。よろしく」

 それは転校の挨拶で猫を被るアスカ。

「あんたバカぁ?」

 それは相手を見下すアスカ。

「ちゃーんす」

 それは歪んだ笑顔のアスカ。

「だからアタシを見て!」

 それは自分を子供扱いする大人に自分が大人であると必死に訴えるアスカ。

「違う! こんなの私じゃない!」

 それは自分の鏡像を自分自身であると受け入れられないアスカ。


 アスカの脳裏に繰り返される過去の記憶。

『はんっ! そうよ、これも私よ。今更こんなモノ思い出させて何のつもり?』

 紅い世界を後にし、新しい生活を始めて早十年。

 それはアスカにとって過去の自分を整理し、自己の中で消化するには充分な時間であった。


「だから私を見て! ママ、お願いだからママを止めないで!」

「一緒に死んでちょうだい」

「ママ! ママ! お願いだから私を殺さないで! イヤ! 私はママの人形じゃない! 自分で考え、自分で生きるの! パパもママも要らない。独りで生きるの」

 それは忘れたくても忘れられない記憶。

『同じ手は食わないわ! そうよ、これも私。この十年、忘れたことなんかないわ』

 それはアスカにとって決して思い出して心安らぐような記憶ではないし、事実、今でも夢に見れば魘される。

 しかし、記憶の奥底に閉じ込めていた記憶を無理やり引きずり出された過去とは異なり、使徒アラエルの攻撃の結果忘れることの出来ない記憶としてそれを抱き続けている現在のアスカは、この程度のことで動揺することはない。


 使徒からの侵食が始まった後、弐号機の中のアスカの心には異質なモノからのイメージが直接伝わっていた。アスカ自身の過去の記憶もそんなイメージの一部である。

『はんっ! で、アンタ誰よ? いい加減出てきたら?』

 そのモノは猿のぬいぐるみを抱いた幼いアスカの姿を形取り、イメージの中に在った。

『私と一つにならない?』

『はぁ? あんたバカぁ』

『寂しいの?』

『誰が寂しいっての?』

 アスカが幼いアスカの姿をしたそのモノの言葉に反応すると、そのモノのイメージは突然掻き消える。

『それはあなた。わたしには碇君がいるのに、独りでいるのが嫌なんでしょう? それを、寂しい……と言うの』

 次にイメージの中に現れたそのモノは幼いレイの姿を形取っていた。

『アタシは独りじゃない。アタシにはママがいるわ』

『でも、いずれいなくなる。そうなったらあなたは独りぼっち』

『私は独りで生きるの! 誰にも頼らない! 独りで生きていけるの!』

「アスカ、大丈夫? ちょっと我慢して」

 ちょうどその時、現実世界で弐号機の救出を試みる初号機のシンジからの言葉が掛けられた。

 直後、イメージの中の幼いレイに似た姿のモノとアスカの距離が突然引き離され、アスカの視界にはエントリープラグが戻る。それは初号機が弐号機の横腹に接触していた使徒を引き剥がした瞬間の出来事。

『嘘ばっかり』

 イメージの中の幼いレイに似た姿のモノは、去り際に言葉を残した。

「ちょっと、待ちなさいよ!」

 アスカは反射的に引き剥がされた使徒を弐号機の両手で捕まえていた。

「話はまだ終わっちゃいないわ!」

『ルナ、大丈夫? ちょっと我慢して』

 発令所のスタッフが使徒からの侵食を受ける零号機とルナを心配そうに見守る中、初号機が零号機から使徒を引き剥がした。

『あぁっ』

「ふぅ。取り敢えず何とかなったな」

 マコトは一同を代表するように安堵の言葉を吐くが、依然として事態は楽観出来るものではない。

 スタッフが一息入れる猶予もないまま、零号機から引き剥がされた使徒が弐号機に襲い掛かる様子がメインスクリーンに映し出されている。

「目標、弐号機と物理的接触」

「今度は弐号機の生体部品が侵されていきます」

「くそぉっ! シンジ君! 今度はアスカちゃんだ!」

 またしても、マコトに出せる指示はシンジに危機を伝えることだけだった。

『了解』

「零号機と弐号機が離れているのが問題か? だが、さっきの弐号機の戦いを見る限り近付きすぎれば行動の自由を失う。どうすればいい……」

 シンジへの指示を出した後、マコトは現状を打破する方策を探るのに必死だったが、事態は更に悪化の一途を辿った。

「目標、再び零号機と物理的接触」

『アスカ、大丈夫? ちょっと我慢して』

『ちょっと、待ちなさいよ!』

『はうぅっ』

『話はまだ終わっちゃいないわ!』

 初号機が弐号機の救出を試みる間に、弐号機と融合していない側の使徒の一端は初号機と入れ替わるように零号機に襲い掛かっていた。

「零号機、ATフィールド反転。一気に侵食されます」

「使徒を抑え込むつもり?」

 再び使徒からの侵食を受けた零号機は、使徒との融合を受け入れつつあった。

 侵食を受けている零号機には、そのコアを中心として得体の知れない何かが膨れ上がるように顕れている。

「零号機、フィールド限界。これ以上はコアが維持できません」

「シンジ君!」

『ルナ! それ以上は駄目だ!』

『零号機だけで足りないなら、アタシの弐号機も!』

 通信回線越しに声が届くと同時に、弐号機は初号機が引き剥がした直後に捕まえた使徒を自らの腹部に押し付けていた。

「弐号機、ATフィールド反転」

「弐号機、フィールド限界。こちらもこれ以上はコアが維持できません」

 メインスクリーンに映る弐号機も又、零号機と同じように得体の知れないグロテスクなモノで膨れ上がっている。

『アスカ! そこまでだ!』

 零号機と弐号機への侵食が進むに連れて使徒の表に出ている部分が減少しているせいか、弐号機と零号機は引き付けられるように、よたよたと頼りない足取りで互いに歩み寄っている。

「いかん!」

 零号機と弐号機に続き、表に出ている使徒の残りの部分を自らの体内に抑え込もうという初号機の意図を見てとったゲンドウは思わず大声を上げた。

「はうぅっ」

 使徒からの二度目の侵食を受けた零号機のルナはその時、えも言われぬ充足感のようなものを感じていた。

「ルナ! それ以上は駄目だ!」

 シンジからの警告も、耳に届いているようで、その実届いていない、全てが曖昧な感覚の中にルナはいた。

『私と一つになるのね?』

 ルナの心の中に投影され彼女自身と対峙しているそのモノのイメージは、幼い頃のレイの姿を形取っている。

『いいえ、私は私。あなたじゃない。そう言ったわ』

『そう、でもダメ。もう遅いわ』

『そうなの? それなら私も分けてあげる。あなたにも分けてあげる。喜びも悲しみもない空っぽのあなたに。私の心を分けて上げる。それは、とてもとても気持ちのいい事なのよ』

『あぁぁぁぁぁっ!』


「零号機だけで足りないなら、アタシの弐号機も!」

 手で掴んでいた使徒を半ば強引に腹部に押し付けた弐号機は使徒からの侵食を受け入れると言うよりも、むしろ使徒を飲み込もうという勢いだ。

 それは弐号機を駆るアスカの精神状態にも表れている。

「アスカ! そこまでだ!」

 シンジからの警告も、耳に届いているようで、その実届いていない。それだけアスカは集中していた。

『さっきは、良くも好き勝手言ってくれたわね』

『私と一つになるのね?』

 アスカの心の中に投影され彼女自身と対峙しているそのモノのイメージは、幼い頃のレイの姿を形取っていた。

『何であんたなんかと一つにならなきゃなんないっての?』

『だってあなた、寂しいんでしょう? 独りが嫌なんでしょう?』

『あんたバカぁ? 一つになったって、そんなの何も変わらないじゃない』

『私と一つになれば碇君が一緒にいてくれる』

『何で、そこでバカシンジが出てくんのよ。大体バカシンジ一人いればいいなんて、そんなのただの依存じゃない。アタシは真っ平ゴメンよ!』

 突然、イメージの中の幼いレイの姿が幼い頃のアスカの姿に変化する。

『あなたも同じなの。だって、ママがいればいいんでしょ?』


 シンジは焦っていた。

 彼ら独自の作戦会議においても、この使徒への具体的な対抗策は結局見つからず、行き当たりばったりの出たとこ勝負、最悪、過去と同じようにエヴァで使徒を抑え込んだ挙げ句の自爆でけりを着けざるを得ないという結論に達していたことは事実だ。しかし、その役目は零号機や弐号機ではなく初号機の予定だった。

 神であるシンジは、その使徒とでも言うべき存在のルナやアスカとはその存在の格が異なる。シンジ自身は自分が特別な存在であることを望んではいないが、事実は覆らない。それを考慮すると、シンジが自爆攻撃を行うことが一番安全であり、ついでに初号機を消滅させることでSEELEやゲンドウの補完計画にブレーキを掛けられる一石二鳥の策。

 しかし、現実はそこから乖離している。

 シンジの目の前で、零号機に続き弐号機までもが使徒を抑え込もうとしている。

(ルナとアスカはどういうつもりなんだ?)

『フィールド限界。これ以上はコアが維持できません』

「零号機だけで足りないなら、アタシの弐号機も!」

 不意に脳裏に浮かぶ発令所のマヤやアスカの直前の言葉。

(エヴァ一機で駄目なら二機、二機で駄目なら三機……そういうことか。でも、どうやって?)

 使徒は零号機や弐号機に対し物理的接触および侵食を試み、ルナやアスカは半ば自発的にそれを受け入れた。それが現在の状況であるが、シンジにその事実を知る術はない。

 紐状の使徒の両端は現在零号機と弐号機に食い付いており、初号機に向かってくる部位は存在しない。その上、これもシンジの知ることではないが、使徒はシンジの駆る初号機を避けている。結果としてシンジにはルナやアスカと同じ手段は与えられていなかった。

 取るべき手段を見つけられないまま、初号機は零号機と弐号機を繋ぐ使徒の体に手を掛ける。更なる侵食の進行は零号機と弐号機のコアの限界を越えさせる恐れがあるため、一先ず、使徒を引っ張ることで侵食を抑える――それがシンジの当面の狙いだった。

『いかん!』

 通信回線からのゲンドウの言葉は、しかしシンジの耳には届かない。


 初号機が使徒の体を掴んだ瞬間、世界は繋がり、一つになった。


 目の前で自分と対峙しているレイの姿のモノが突然上空へと引き上げられ、その様子を追うルナの視線の先にはこれまでにない巨大な存在。

(あれは……碇君?)

 見上げる先には巨大なシンジの姿。

 ルナの視点からは現在のシンジがエヴァ程の大きさに見え、巨大な手から紐が延び、その先端に先ほどまで自分と対峙していたモノがぶら下がっている。

 ルナは知らず知らずの内にシンジに近寄ろうと歩き出していたが、しかしその距離は一向に縮まらないようだった。


 目の前で自分と対峙している幼いアスカの姿のモノが突然上空へと引き上げられ、その様子を追うアスカの視線の先にはこれまでにない巨大な存在。

(シンジなの?)

 見上げる先には巨大なシンジの姿。

 アスカの視点からは現在のシンジがエヴァほどの大きさに見え、巨大な手から紐が延び、その先端に先ほどまで自分と対峙していたモノがぶら下がっている。

 アスカはシンジに引き上げられたモノを追い掛けて走り出していたが、しかしその距離は一向に縮まらないように感じられた。


 初号機で使徒の体を掴んだ瞬間にシンジの心に浮かび上がった薄暗い世界。

 その世界でシンジの体は空中に浮かんでいる。視線を下へ向けると、そこにはボンヤリとLCLのような色が見える。

 下の方にルナやアスカを発見したシンジは、彼女らを目指し下降を急いだ。


『アスカ!』

 全力に近い速度で走り寄ってきたアスカを、シンジは抱き止め全身をくるりと回して勢いを殺す。ここ十年近い月日で日常的にリナの突進を受け止めているシンジには、その程度の身のこなしは朝飯前のことだ。

『あれ? シンジ、小さくなった?』

 アスカが最初にシンジと認識した存在はエヴァほどの大きさだったが、現在は彼女の視点で見る普段のシンジの大きさに戻っている。シンジが徐々に小さくなったことがアスカの遠近感を狂わせ、その結果がシンジへの突進だった。

『上から降りてきただけなんだけど?』

『降りてきた?』

『うん。下にアスカとルナが見えたから』

『私たちと碇君では見えている物が違うのね』

 別方向より後からやって来たルナにはシンジとアスカの両方が見えていたため、早い段階で互いの位置関係を把握していた。

『どういうこと?』

『私にも碇君が大きく見えた』

『そうよ! エヴァくらいに見えたわ』

『そうなの?』

『ええ。エヴァと同じくらい大きかった。それに、綾波レイの姿を真似したヒトを紐で吊り上げたわ』

『ファースト? ちんちくりんな私の偽物じゃないの?』

『そう、あなたと私も見えている物が違うのね』

『紐で吊り上げたって何のこと?』

『その手に持ってるじゃない!』

 アスカの目には、小さくなったシンジの大きさに合わせるように同じく小さくなった幼いアスカの姿をしたモノがシンジの手から延びる紐の先に映っている。

『私にも碇君が左手に持っている紐の先に小さな綾波レイが見えるわ』

 ルナの目には、シンジの手から延びる紐の先にレイの姿をしたモノが映っている。

『え? 僕は何も持ってないけど』

 シンジは自らの両手を開いて閉じる動作を繰り返すが、彼にはそこに何かが存在するようには見えない。

『これよ、これ!』

 アスカはシンジが左手に持つ紐に手を掛け、その先にぶら下がる掌サイズの幼いアスカの姿をしたモノに視線を向けた。

『何も見えないんだけど?』

『そう、そういうことなの……』

『ちょっと、ルナ! 解るんなら説明しなさいよ!』

『あなた用済み』

 ルナはアスカと同じようにシンジが左手に持つ紐に手を掛け、その先にぶら下がる掌サイズのレイの姿をしたモノに視線を向けつつ、話し掛けた。

『碇君がそう言ってるのよ。あなたの事。アルミサエルはしつこいとか、アルミサエルは用済みだとか……』

『えっと、そこに使徒がいるの?』

 ルナの視線の先にも何も見えないシンジは、何もない場所に向かって話し掛け続けるルナに訊く。

『そうよ。これが私たちが使徒、アルミサエルと呼ぶヒト』

『はーん、そういうこと』

『どういうこと?』

『この世界の神である碇君の目に見えないということは、このヒトはこの世界での存在を許されていないということ』

『哀れね』

『じゃ、さよなら。碇君もお別れを言ってあげたら?』

『うーん、見えないものに何か言うのも何だけど……君ではないけど君と同じ使徒には恨みがあるんだ。君はいない方が僕には嬉しい。だから、ごめん』

 それはルナやアスカが何年かぶりに聞くシンジの微妙に意味不明な「ごめん」の言葉。

 直後、三人の視界にはエントリープラグが戻った。

 発令所のメインスクリーンに映る初号機が使徒の体を掴んだ直後、零号機と弐号機は引き寄せられるように初号機に近付き始めた。

 零号機と弐号機とを繋ぐ格好になっている紐状の使徒がたるむ様子もない一方で、零号機と弐号機への使徒の侵食が進行している様子もない。

「状況は?」

「零号機、弐号機共、依然危険な状況ですが、侵食は止っています」

 マコトの質問へのマヤの回答を聞いたリツコは、そこでひとりごちた。

「使徒が小さくなってる……」

 スタッフが言葉もなくスクリーンを見つめる中、三体のエヴァは人間で言えば三人で立ち話をするような位置関係にまで近付いていた。使徒の表に出ている部分は目に見えて小さくなっている。

 一旦集まった三体のエヴァはそれ以上の動きを見せず、使徒も又動かない。

「一体、何が起こってるんだ?」

 マコトの言葉はその場の全員の疑問を代弁していた。


 次の変化は、突然だった。

ぱしゃっ

 スクリーンに映る、短くなった使徒の紐状の部分と弐号機を膨れ上がらせていた得体の知れないグロテスクなモノが突然オレンジ色の液体と化し、その場に落ちたのだ。

 同時に零号機から顕れていたモノは零号機に吸い込まれるようにして消えた。

「パターン青、消滅」

「やった……のか?」

 使徒反応の消失の報告を受けたマコトが半信半疑でいる中、事態は更に変化を見せる。

ぐるるるるるっ

 スクリーンに映る零号機は声にならない唸り声のようなものを発しながら、理性を失ったかのような振る舞いを始めている。

「零号機、神経パルスに異常発生。シンクロ率がどんどん上昇していきます」

「何ですって!」

「シンクロ率、400%を越えました」


「冬月。リリスの目覚めだ」

「リリス? ああそうか。そういうことだったのか……。始まったな」

「ああ、全てはここからだ」


to be continued...



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