「やっぱり、これか……」
その日、一通の封書が届けられた碇シンジは苦笑混じりに言った。
封筒の中身は、あらゆる文字という文字が黒塗りにされた元は何らかの書類であったらしい紙の余白に「来い」という一言と署名だけが殴り書きされた手紙と一枚の絵はがき、そして京都駅から第3新東京市内へと向かうリニアの片道チケットだった。
黒塗りの書類も碇シンジの名前とID番号だけは消し残されており、それは元々シンジに関する書類であったと見受けられる。
同封された絵はがきの図柄はタンクトップの胸元をアップにした女性の写真であり、「私が迎えに行くから待っててねん♥」などと書き付けられ、「ここに注目」と矢印で胸元が強調され、おまけにキスマークが付けられていた。
いずれも見慣れた三点セット。四度目の人生を送っているシンジにとり、リニアのチケットの出発地以外は四度ともまるで変わらない代物だった。
「遂に始まるんだねぇ」
渚カヲルが感慨深げに言った。
「シンジ君……気を付けて」
シンジが身内の間でも榊シンジを名乗るようになって以来、散々時間を掛けて結局「シンジ君」と呼ぶようになった山岡ルナは、心配そうな顔を見せた。
「シンちゃん、頑張ってね!」
当事者であった経験がないため、正義の味方を送り出すような雰囲気で激励しているのは山岡リナだった。
「まぁ、どうせ全部茶番なんだけどね」
自らは死ぬことすら出来ないであろうと達観しているシンジは、その場の空気を和らげるように軽口をたたいた。
「シンジ。リニアで行くつもりか?」
「リニアだと間に合わないはずなので、できればヘリか何かで行きたいんですが……」
碇シンタロウの問いにシンジは自らの経験を交えて希望を述べた。京都からリニアで第3新東京市を目指す場合、関が原を越える前に足止めを食らう。それはシンジの二度目の人生で経験したことだった。その時は結局移動手段が失われたまま途方にくれているところに、NERVのVTOLが迎えに来た。
「手配しよう」
別に自前でリニアのチケットを用意して早めに出るという手段もあるにはあったが、シンジは第3新東京市駅まで迎えに来るであろう女性の車には、できれば乗らずに済ませたかった。もちろんその暴走っぷりをこれまでの三度の人生で嫌と言うほど経験しているからである。
「それでは行ってまいります。お祖父様」
「うむ。華と散ってまいれ」
シンジの出発の挨拶に物騒な言葉を返したシンタロウに、リナが食って掛かった。
「お祖父ちゃん、それってちょっとひどくなーい?」
「心配しなくていいよリナ。ちょっとした冗談なんだから」
シンジはリナをそっと抱きしめながら言う。以前の彼には考えられないことではあるが、今ではその程度のスキンシップは日常茶飯事であった。
幼い頃には何の疑問も持っていなかったリナも、自らの正体を認識して以来、ルナと同様ではあるがシンジに永遠に面倒を見て貰う約束をしている。
「そんなこと言ったって……」
「リナばっかり、ズルい」
次は、長年の同居の結果、今では積極的な行動を見せるようになったルナの番だった。
「行ってくるよ」
「今日からまた、碇君なのね」
ルナは何となく嬉しげだった。
「僕の番はまだなのかい?」
カヲルも名乗りを上げるが、それはルナとリナにより阻まれた。
うーーーーーーーーー
『本日12時30分、東海地方を中心とした関東、中部全域に特別非常事態宣言が出されました。住民の皆様は速やかに指定のシェルターに避難してください。繰り返しお伝えします――』
街の放送システムは非常警報と共に住民の避難を呼び掛ける放送を繰り返している。
時に西暦2015年。
相模湾の旧湾岸地域、海の底に沈んだ廃建築群の間には、何者にも邪魔されず、音もなく静かに、しかし確かな足取りで流れるように進むモノが在った。
やがてそのモノは浅瀬に辿り着くと、立ち上がり、水面からその姿を見せた。
それは、首から上がないことを除くと人と同じような形をしていた。ただし、その全長は数十メートルにも及ぶ巨体であり、仮に生物であったとしてもそれは人類にとって完全に未知のモノである。
全身は黒に近い濃緑で白い肩パットのようなものまで付いている。首から上がない代わりに――と言っては語弊があるが、胸に顔のようなものも存在しており、腹には白い鉤爪で守られるかのように紅い珠が見える。
立ち上がったその異形のモノは周囲には目もくれず、歩みを進めるその二足の足取りにも全く迷いがない。そのモノは自分の行き着くべき所、人間たちが第3新東京市と呼ぶその場所を完全に意識していた。
一方、人間たちもまた、そのモノが進む先には第3新東京市があることを完全に認識しているようだった。
第3新東京市の街には既に人の姿は見えず、住人の避難は完了しているように見える。人々の生活を感じさせる日常の喧騒も既にそこにはなく、辺りには蝉時雨だけが鳴り響く。
街の周辺を囲う山々にはUNと記された国連軍の戦車が海岸線に沿うように整然と隊列を組み、その砲列はまだ見ぬ異形のモノの予想進路に照準を合わせ、待ち受けていた。
シンタロウが手配したヘリコプターに乗ったシンジは、今朝の出発時の模様を思い起こしつつ、これまでのことを振り返っていた。
(父さんに捨てられた時はのっけから失敗しちゃったな……と思ったけど、結果としては良かったのかな?)
ヘリコプターが第3新東京市へと差し掛かったのは、時刻が午後一時を回った頃だった。パイロットは管制塔と何やら交信すると、ヘリコプターを大きなHの字が記された位置へと着陸させる。そこが特務機関NERVのヘリポートだった。
シンジを乗せたヘリコプターが着陸した直後、エレベータになっているヘリポートは地中に潜り始めた。
まだ第3新東京市内が戦場になっていなかったことに、シンジは大いに安堵した。
「あなたが碇シンジ君ね?」
エレベータが静止してシンジがヘリコプターを降りると、そこに金髪に黒い眉、切長の左目の目元に泣きボクロを持ち、その身を白衣に包んだ女性が待ち構えていた。
赤木リツコだった。
「正体不明の移動物体は依然本所に向かって侵攻中」
「目標を映像で確認。主モニターに廻します」
NERV本部内の発令所では、ようやく異形のモノを映像で捕らえていた。
「15年ぶりだね」
「ああ、間違いない。使徒だ」
冬月コウゾウののんびりとした調子の会話に付き合う碇ゲンドウの答えもまた、彼らにとり当たり前の現状を再確認するだけのものだった。彼らは異形のモノを使徒と呼んだだけでなく、過去に同様のモノが存在したことを隠さなかった。
その頃、最前線である使徒の周辺では、国連軍のVTOL攻撃機の部隊による使徒への攻撃が激化していた。
「目標に全弾命中!」
状況を確認したオペレータが興奮気味に報告する一方、使徒は加えられた攻撃に何の痛痒も感じていないようだった。
直後、使徒は右腕から光の槍のようなものを繰り出して辺りに殺到しているVTOLを串刺にし、続けて両足で飛び跳ねると、そのまま別のVTOLを踏み付けにした。VTOL部隊は、使徒によって正に蹂躙されていた。
「目標は依然健在。現在第3新東京市に向けて侵攻中」
冷静に事態を伝えるオペレータの声に対し、NERV本部の発令所内に臨時の指揮所を仮設した国連軍の将校たちは焦燥を隠せない。
『航空隊の戦力では足止めできません』
次々と入る前線からの報告も不吉なものばかりである。
「総力戦だ! 厚木と入間も全部上げろ!」
「出し惜しみは無しだ! 何としても目標を潰せ!」
興奮した将校が総力戦を指示しようとしていたところで、唯一冷静な将校がそれを止めた。
「戦車大隊は壊滅。誘導兵器も砲爆撃もまるで効果なし……全て情報通りだな。これ以上無駄な犠牲を払う必要はなかろう」
「あれがATフィールドとやらの効果か」
「この程度の火力では埒があかんとなると……やむを得ないか」
N2作戦――彼らの持つ現在最強の兵器であるN2地雷が設置されたポイントへ敵性体を誘導し、街を一つ犠牲にしてでも目標を撃破する。それが国連軍の切札だった。
切札は切らねば意味がないとはいえ、街を一つ犠牲にするとなれば責任問題に発展することは間違いない。目標を撃退できない場合の自らのメンツの問題と街を犠牲にする責任問題、将校たちはその板挟みに悩まされていた。
「おい碇。どこからか情報が漏れているぞ」
将校たちの会話を漏れ聞いたコウゾウはゲンドウに話しかけたが、ゲンドウはいつものように、的を外して答えた。
「問題ない。税金の無駄が省けるだけだ」
その時将校の一人が電話を受けた。
「はい。では予定通りに? えっ中止ですか。わかりました」
電話を受けた将校は、悔しさと安堵が入り交じったような複雑な表情を見せていたが、ゲンドウに向かって言い放つ。
「今から本作戦の指揮権は君に移った。我々の所有兵器では目標に対し有効な手段がないことを認めよう。だが君なら勝てるのかね?」
「そのためのNERVです」
ゲンドウが将校の言葉に対し、サングラスを持ち上げながら答えると、将校たちは「期待しているよ」と言い残し、エレベータ構造となっていた彼らの指揮所ごと退散していった。
「どうも戦場の映像がネットワークで配信されているらしい」
「上も中継されるとなると流石に二の足を踏むか……」
退散しつつある将校たちは小声で先ほどの電話について話し合っていた。
「目標は未だ第3新東京市に向けて侵攻中」
「現在、迎撃システム稼働率7.5パーセント」
人間たちの行動とは無関係に使徒は侵攻を続けており、それに合わせ、発令所内ではオペレータたちの報告も続いている。
「総員第1種戦闘配置」
指揮権がNERVに移ったことで、ようやく本番であるという雰囲気を醸し出しながらゲンドウが命令した。
「国連軍もお手上げか。どうするつもりだ?」
「初号機を起動します」
「初号機を……パイロットはどうする?」
「問題ない。もう一人の予備が届いた。今は赤木博士が相手をしている」
自ら戦闘配置を命令したにも関わらず、コウゾウとゲンドウはいささかも雰囲気を変えること無く、淡々と会話を続けている。
「では、後を頼む」
ゲンドウはそう言い残すとエレベータで下階へと降りていった。
「10年ぶりの対面か……」
コウゾウのその言葉を聞くものはその場に誰一人として存在しなかった。
第3新東京市周辺が戦場となっているその時、シンタロウ、ルナ、リナ、カヲル、そして赤木ナオコは碇商事新本社ビルのMAGI制御室に集まっていた。
「N2作戦は中止されたのね」
「まぁ、足止めにしかならないって情報は流しておいたけど、多分アングラであってもストリーミングで中継されてることの方が効いたのね。そうなったら爆弾テロ扱いでお茶を濁すなんて出来ないでしょうし」
ルナの言葉にナオコが解説を加えた。
ナオコが碇のMAGIを把握するのとほぼ同時期に、NERV本部のMAGIは密かに碇のMAGIの制御下に置かれた。NERV本部のMAGIはE計画進捗の合間に片手間でリツコが面倒を見ているのに対し、碇のMAGIは産みの親であるナオコが全力を持って面倒を見ている上、それを仕掛けたのがリツコがMAGIを把握したであろう時期よりも遥かに早かったのだから、碇側から余計なちょっかいを出さない限り、NERVに気付かれる心配はない。詳細に調査すれば、碇のMAGIとNERV本部のMAGIの間で通信が行われていることは、比較的容易に判明する事実のはずではあるが、リツコを代表とするNERV本部内のMAGIに関わる人間たちにとれば、それらの通信はMAGIの最初期から現在に至るまで恒常的に行われているようなものであるため、それが異常事態であることに気付くことはない。
その結果、NERV本部のMAGIがリアルタイムで収集しているあらゆる映像は碇のMAGI経由で覗き見できることになり、京都にいながらにしてNERV本部の様子が手に取るように分かる――そういう状況にあった。
彼らは、覗き見している映像の内、街の状況、すなわち戦場の状況を映しているものに関しては、アンダーグラウンドのストリーミングサイトを経由して全世界に向けて発信していた。パニックを引き起こしかねないなどというお題目の元に実際の戦いが隠蔽されるより、現実に使徒との戦いが行われていることを公開しておく方が一連の使徒戦終了時の後始末のために有用であると判断したからである。
「あっ、シンちゃんが出てきた!」
エヴァンゲリオン初号機が格納されている第3ケイジの映像にシンジの姿が現れるのを発見したのはリナだった。
『顔? 巨大ロボット?』
シンジは何もかも知り抜いているにも関わらず、大げさに驚いている。
「シンジは役者には向いとらんな」
冷静に指摘するシンタロウだった。
『これは母の仕事ですね』
『そうだ』
シンジが密かに投下した爆弾は、残念ながらあっさり無視された。
『久しぶりだな』
何処からかゲンドウの声が聞こえてくるが、映像では確認できない。
『えっと、あれが父ですか?』
シンジは分かりきったことをリツコに確認して続けた。
『髭生やしたんだね。それと少し太ったかな』
『ふっ、出撃』
シンジの必死の努力も空回りするばかりであった。
「ひっどーい。シンちゃん完全に無視されてるよ」
「ふっ、シナリオ通りだ」
リナが漏らした感想に、ルナはゲンドウの真似をして突っ込みを入れている。碇MAGIの前に集合している面々にとり、それはやはり茶番劇に過ぎないのだ。
『碇シンジ君。あなたが乗るのよ』
リツコはシンジがパイロットとして初号機に乗り込むことが決定事項であるかのように説明した。
(あれ? あ、ミサトさんがいないのか……)
一方シンジは、自分のシナリオ(経験)と全く違うことにようやく気付く。
『父さん。何故呼んだの?』
『お前の考えている通りだ』
『絶対違うよ。ちゃんと説明してよ!』
『お前がそれに乗って使徒と戦うのだ』
『何故、僕が?』
『他の人間には無理だからな』
『無理だよそんなの。見たことはあるけど、聞いたこともないのに、出来るわけないよ!』
『説明を受けろ』
『座っていればいいわ。それ以上は望みません』
『乗るなら早くしろ。でなければ帰れ』
シンジはここで一旦考える振りをして間を取った後、条件を切り出した。
『100億。今日、今、ここでこれに乗るだけで100億円払って貰うよ』
『……』
『乗せただけで母さんを殺したこの人造人間とやらに僕を乗せようっていうんだ。安いもんでしょ』
『……』
『F1のトップドライバーの年俸が年間15戦くらいで150億円。一戦当り10億円と計算して、その10倍。乗るだけでは死なない、しかも潜在的には誰にでもできる仕事の報酬に比べたら、これに一回乗るのに100億円じゃまだ安すぎるかもね。戦闘機の値段とか考えても安すぎる。うん、実にお買得だよ』
『……』
『大体、母さんを殺して奪い取った資産だけで、十分お釣りがくるでしょ』
「1回100億とは吹っ掛けたものだな」
「碇君……お金が欲しいの?」
「サキエルが穴を掘り始めたようだねぇ」
その時、ケージに激しい振動が伝わった。
『やつめ、ここに気付いたか』
『シンジ君。時間がないわ』
『決断するのはあなた方ですよ。僕じゃありません』
「何か、静かになっちゃったよ」
「私を呼び出してるのね」
ゲンドウがどこかに連絡を入れたのを確認すると、リツコは新たな指示を出した。
『初号機のシステムをレイに書き直して再起動』
『了解。現作業中断。再起動に入ります』
「もう一人の私が出てきたわ」
映像には、ストレッチャーに乗せられ、医師団により連れられてきた綾波レイの姿が捉えられていた。
「また、怪我をしているのね」
「あっ! レイさんが……」
画面ではレイのストレッチャーが崩れ落ちていた。
(こんなところは変わらないんだなぁ)
シンジは使徒の攻撃により破損した天井の構造物が自らに向かって落下するのを見つめていた。
(じゃ、同じように……と)
その時、初号機の右手がひとりでに動きだし、落下物を弾き飛ばした。もちろんこれは、シンジが初号機を制御した結果である。それは、シンジの経験した過去において、フィフスチルドレンたる渚カヲルがエヴァンゲリオン弐号機を操ったのと同様のことであり、彼らにしてみればエヴァンゲリオンを操るためにエントリープラグなどの存在は必要でない。
『エヴァが動いた。どういうことだ?』
『右腕部の拘束具を引きちぎっています』
『まさか……有り得ないわ。エントリープラグも挿入していないのに、動くはずないわ』
『保安部。そいつを拘束してプラグに放り込め!』
初号機がシンジを守ったと確信したゲンドウは、無理やりにでもシンジを初号機に乗せることを命じた。
(どうせ乗るつもりだったけど……)
シンジは保安部に抗うことはせず、大人しくエントリープラグに乗り込んだ。その結果、シンジは、レイが怪我をしている振りをしているだけという事実に気付くこともなかった。
「遅いじゃないリツコ。何やってたのよ!」
その時、発令所でエヴァンゲリオンの出撃準備が整うのを待っていた葛城ミサトは、リツコが発令所に戻ってくるのを確認すると咎めるように言った。迎えが不要であることを碇家から数日前に通達されていたため、ミサトは通常通りの勤務についており、更に使徒襲来の報を受けたため発令所に詰めていた。非常事態であるからにはNERVの戦闘指揮官であるミサトがパイロットの迎えなどに出かける余地はない。
「今日来たばかりの子をパイロットにしようというのよ。そんなに簡単に済むはずないわよ」
「でも、今は使徒撃退が最優先だわ。解ってるはずよ。赤木博士」
「パイロットは駒ではないわ。人、それも中学生よ。葛城一尉」
ミサトとリツコが言い争いを続ける中、初号機の起動作業は続けられていた。
「エントリープラグ注水」
オペレータ席に着いているショートカットの黒髪で童顔の女性、伊吹マヤがその操作を行うと、シンジの乗り込んだエントリープラグは、薄橙色の液体で足下から満たされ始めた。
『な、何ですか? これ。血の臭いがする。あ、あっ、はっ、うわぁ』
「大丈夫。肺がLCLで満たされれば血液が直接酸素を取り込んでくれます。直ぐに慣れるわ」
『気持悪い』
「がまんなさい。男の子でしょう?」
『女の子なら苺味とかなんですか? いいなあ』
「ミサト! 邪魔しないで」
ミサトとリツコのヒステリックなやり合いはようやく一段落した。
「主電源接続」
「全回路送電開始」
「第2次接続開始します」
「A10神経接続異常なし」
その時、エントリープラグ内は一瞬七色に輝き、その後周囲の様子が映し出されるようになった。
「初期コンタクト全て問題なし」
「双方向回線開きます。エヴァ初号機起動しました。シンクロ率……0パーセント」
これまで製造し管理してきたNERVにとってみても、エヴァンゲリオンという代物には未だ謎が多い。例えば起動という現象それ自体が一つの謎であった。人類にとりエヴァは起動するモノであって、起動させるモノにはなり得ていない。NERV本部でのこれまでの実験では、シンクロ率が一定の水準に達するとエヴァはパイロットの意識に反応を示す状態になることが判明しており、彼らはその状態を起動したと定義しているに過ぎないのだ。
「0パーセントなのに起動した。まさか……セカンドチルドレンと同じなの?」
リツコはマヤの報告を自分なりに分析し、そういう結論めいたものに行き着いた。
「ハーモニクス、全て正常値。暴走、ありません」
「行けるわ……多分」
リツコにとって目の前で繰り広げられている事態は未知のものだったため、まるで自信を持てはしなかった。しかし使徒との戦闘が継続中である以上、彼女には他に手段がないこともあり、その予想を戦闘指揮官であるミサトに伝えた。
そして、ミサトはリツコの言葉を受け、命令した。
「発進、準備」
「構いませんね?」
「もちろんだ。使徒を倒さぬ限り我々に未来はない」
初号機の発進準備が整えられ、ミサトがゲンドウに確認を取ると、ゲンドウは当然という顔で答えた。
「碇。本当にこれでいいんだな?」
コウゾウがゲンドウの本心を探るように言うとゲンドウはにやりと笑ったが、その口元はいつものように、組んだ両手で隠されている。
「発進!」
ミサトの命令により、初号機はカタパルトを用いて地上へと向かい射出された。
一方、地上をさまよい歩いていた使徒は、今まさに初号機が現れようとしている射出抗に興味を惹かれるように足を止め、その向きを変えた。
「シンジ君。死なないでね」
その時、ミサトの場違いな独り言を聞くものはいなかった。
「エヴァ初号機……」
ルナは久しぶりに見たその姿を懐かしそうに見つめていた。
「さぁ! 私の出番はこれからね」
ナオコは気合いを入れて映像に集中し始めた。
『いいわね。シンジ君』
『ハァ?』
『最終安全装置解除。エヴァンゲリオン初号機、リフトオフ』
発令所では、初号機が地上に到達したのを確認したミサトが新たな指示を出していた。
ミサトの指示により初号機の拘束具が外されたことを確認すると、シンジは初号機を一歩進め、そこに胡座をかいて座り込んだ。
『シンジ君。何やってるの! 立ちなさい』
『座っていればいいといったのはあなたたちですよ。それにまだ、この僕だけが命を懸けさせられる仕事に対する報酬の返事も聞かせて貰ってません。もしかして押し込みさえすれば、僕は勝手にあなたたちの望むように戦うとでも考えてたんですか? まったく、呆れちゃうな』
その場に座り込んだシンジの様子にミサトは苛立ちを隠さないまま命令を下すが、当のシンジはすまし顔で答えた。
『何をやっている。シンジ、戦え』
たまらずゲンドウも命令するが、シンジは動かなかった。
そうこうする内に使徒は初号機に近付き、腕から延びる光の槍のようなものを初号機に向けて打ち出し始めたが、その攻撃が初号機に到達することはなかった。
かきーん
『エヴァ初号機よりATフィールドの発生を確認!』
マヤが興奮気味に報告すると、リツコは言った。
『ATフィールド……。やはりエヴァも持っていたのね』
かきーん、かきーん、かきーん、かきーん……
発令所の様子などお構い無しに使徒は攻撃を続ける。自らの攻撃が効かないことに対し苛立つように、使徒は両腕の光の槍を交互に初号機に向けて打ち出し続けている。
かきーん、かきーん、かきーん、かきーん……
しかし、それでもシンジは動かない。
かきーん、かきーん、かきーん、かきーん……
そして遂に――
『条件を飲もう』
ゲンドウはその一言を発した。
『それじゃ、動かし方を教えてください』
シンジは説明を受ける間もなく、エントリープラグに押し込まれたことを忘れていなかった。
『エヴァはあなたが頭で考えた通りに動くはずよ。まずは立ち上がってみて』
リツコはシンジの言葉でハッと気付かされたように説明を始め、シンジはそれに付き合って初号機を立ち上がらせた。それよりも前にシンジが自らの意図で初号機に胡座をかかせていたという事実は、完全に忘れ去られている。
うぉーーーー
『立った』
発令所内では初号機が立ち上がったというだけで、どよめきが生まれた。
かきん、かきん、かきん、かきん……
その最中も使徒の攻撃は続いており、シンジはそれを初号機のATフィールドで防ぎ続けていた。
『攻撃して!』
『どうやってですか? 武器はないんですか?』
興奮を隠さないまま曖昧な指示を出すミサトの言葉に対し、シンジは確認するように訊いた。
『残念ながら、まだ武器は用意できてないの』
返事に詰まったミサトに代わり、リツコが答えた。
『それじゃあ、どうやって攻撃しろと? まさか、ケルナグール?』
『……そういうことになるわね』
シンジの言葉に皮肉を感じたらしいリツコは、一瞬言葉に詰まりながらも、それを認めた。
『ふーん。じゃ、いきまーす』
シンジは初号機を使徒に向かって走らせた――といっても最初から使徒の槍の間合いにいたのだから、エヴァにとってそれはほんの数歩という距離ではあったが……。
初号機は使徒に近付くとそのまま使徒を蹴り飛ばし、兵装ビルに打ち付けられた使徒が身動きを取れずにいるのを確認すると、更に追い討ちを掛けるように出鱈目に殴り付けた。
『お腹の赤い球体が弱点と考えられます』
形勢が逆転したのを感じたリツコが新たに情報を与え、それを受けて初号機は使徒の持つ赤い珠を殴り付けた。
しかし――
がきーん
『何だこれ? 殴っても当たりませんよ』
解りきっていることだが、そこは敢えて尋ねるシンジだった。
『ATフィールド……。やはり使徒も持っていたのね』
『そこにATフィールドがある限り、こちらの攻撃が使徒には届かない』
質問にも答えず、ただ感想を述べ合うだけの発令所にシンジは質問を続けた。
『どうすればいいんですか?』
『さっきから初号機もATフィールドを展開していることが確認されています。理論上、それらは互いに打ち消し合うことができるはずよ』
がしっ
しかし、戦闘中に長い会話を交わす人間たちの隙を使徒は見逃さなかった。その瞬間、初号機の左腕は使徒の手に掴まれていた。
ぐちゅ
『ぐぁああああ!』
使徒の握力により、初号機の腕が捻り潰されたと同時にシンジが悲鳴を上げた。これはシンジの演技だった。シンクロではなく、同化してエヴァを操っているシンジにとり、エヴァの感覚も完全に自らの感覚と同化していると言って良い。しかし、その感覚に対する認識もまた人間としてではなくエヴァとしての自分が受け取る感覚であり、人間であれば苦痛を感じてしかるべきダメージを受けていても、エヴァであるシンジには大した問題ではなかった。乱暴に言えば、エヴァの感覚は鈍い。
『シンジ君、落ち着いて。それはあなたの手じゃないのよ』
『レギュレータのフィードバックを一桁下げて!』
使徒の攻撃で苦しんでいるように見えるシンジに対し、何も知らないミサトが意味のない声をかける一方、リツコはシンジが感じているであろう苦痛を低減させるための指示を出した。
現実にダメージを受けたエヴァの感覚を自らが受けたと同様にパイロットが感知するという仕組みは、兵器としては明らかな欠点と言える。しかし、エヴァが人の形をとり、人の使う武器を模した巨大なエヴァ専用の武器を用いることを考えると、ある程度の感覚の再現は必須である。
例えば、人間用の銃火器を模したエヴァ専用の銃火器は、エヴァの手で引鉄を引くことで弾丸を発射することができる。しかし、パイロットが感じるエヴァの手が引鉄を引いた感覚が鈍ければ、不必要な力がかけられ、その結果エヴァの手で銃を握りつぶして壊すという結果につながる。
現実の戦闘を経験したことのない研究者達ばかりで開発が続けられていたこともあり、NERV本部でのエヴァの研究では、パイロットがエヴァの感覚を自らの感覚として知覚し、究極的にはパイロットが自ら巨大化したモノとしてエヴァを認識することを目指した。これを実現するための技術として、エヴァが鈍い感覚として伝えているであろう信号をレギュレータで増幅しLCLに流し込むという機構がエントリープラグに組み込まれている。リツコの指示は、この増幅率を下げるというものであった。彼女も又、自らの指示に意味がないことに気付いていなかった。
使徒は追い討ちを掛けるように、余ったもう片方の腕から光の槍を打ち出し、それは初号機の顔を直撃した。
その時シンジは、既に初号機との同化を解きつつあった。
「来るわね」
その時、映像に集中していたナオコは計画遂行のタイミングを計っていた。
『左腕損傷』『回路断線』
オペレータたちは事態の急変にパニックになりながらも状況を報告している。
がきーん、がきーん、がきーん……
その間も使徒は初号機の顔に光の槍を打ち付け続ける。
『頭蓋前部に亀裂発生』
『装甲が、もう……持たない』
リツコにできることは現状をただ認識することだけであった。
っがしゅう
そして遂に使徒の攻撃が初号機の装甲を突き破り、初号機の肉体に直接の損傷を与えた。初号機頭部の傷からは、体液が吹き出している。
『頭部破損、損害不明』
『制御神経が、次々と断線していきます……エヴァ初号機沈黙しました』
その時、初号機の目が、光を失った。それはシンジが初号機との同化を完全に解いた瞬間だった。
『パイロットの反応がありません』
『シンジ君!』
ミサトが慌てて声を掛けたが、応答はなかった。
『これ以上はパイロットの生命維持に問題があります』
『これまでね――』
黒縁眼鏡がトレードマークの日向マコトの上申を受け入れると、ミサトは唇を噛み締めつつ、次の指示を出した。
『エントリープラグ射出。パイロットの保護を最優先に』
「ぽちっとな」と、ナオコは言った。
これ以降、初号機とNERV本部のMAGIの通信は完全に遮断されることになる。
『パルス逆流。信号拒絶。受信しません。ダメです、完全に制御不能です』
シンジは京都のナオコが干渉するだろうタイミングを見計らい、再び初号機と同化すると、それが自らの体であるかのように初号機を操り、そして、吠えた。
ぐるぅおぉぉぉぉっ
『エヴァ初号機……再起動』
マヤは自ら報告していながらも、目の前で起こった現象を信じられないような雰囲気である。
『嘘! 動けるはずないわ』
『パイロットの生死不明』
『まさか』
『暴走?』
発令所内は新たな事態の展開に騒然としていた。
『勝ったな』
『ああ』
しかしその中で二人だけ、予定通りだという雰囲気の会話を交わす者たちがいる。コウゾウとゲンドウだった。
自らに取り付いていた使徒を蹴り飛ばして初号機と使徒との間合いを取ると、シンジは損傷していた左腕の、本来あるべき姿を思い浮かべた。
『左腕復元』
『すごい、一瞬にして……』
初号機は自らの左腕を復元すると、飛ばされた体勢から立ち上がろうとしている使徒に、前方宙返りをしながら取り付き、マウントポジションを確保すると使徒の体中を闇雲に殴り付けつつ、口を大きく開いた。
『顎部拘束具破損』
モニターで様子を確認したマヤが発令所内に報告する間に、相手が戦意を喪失したことを感じ取った初号機は使徒に喰らい付いた。そして――
ぐちゅっ、ぐちゅっ、がつっ、がつっ
初号機は使徒の肉を噛み千切っては咀嚼し飲み込むという作業を繰り返した。
シンジの中にはサードインパクト時の、初号機のあるべき姿が完全に記憶されている。使徒の肉を取り込むことにより、自らの肉体のように感じ取れる初号機の体組織は記憶された姿に近付いていく。
『使徒を……喰ってる……』
その様子を見たミサトは呆然と事実を自らに言い聞かせるように語っていた。
マヤは込み上げてくる吐気を必死に堪えていた。
『まさか、S2機関を自ら取り込もうと言うの……?』
そしてリツコは目の前で繰り広げられている事態が何を意味するものであるかに推測を巡らせていた。
初号機が、そして、シンジが食事に満足する頃には、既に使徒は完全に沈黙していた。
突然、食事を終えてその場に立ち上がった初号機の両肩や胸の筋肉が内側から盛り上がり、装甲を内側から破壊した。
『拘束具が……』
『拘束具?』
その様子を見たリツコの呟きを不審に思ったミサトは訊き返した。
『そうよ。あれは装甲板ではないの。エヴァ本来の力を私たちが押さえ込むための拘束具なの。その呪縛が今、自らの力で解かれていく。私たちにはもう、エヴァを止めることはできない……』
ぐおぉぉぉぉぉっ、ぐおぉぉぉぉぉっ、ぐおぉぉぉぉぉっ
最後の仕上げに初号機は天に両手を突き上げ勝鬨を上げた。
『パターン青、消滅。使徒殲滅を確認しました』
その頃発令所ではマコトが使徒殲滅の報告をしていたが、関係者は呆然としていた。
『これがエヴァの……本当の姿』
その後、一息入れたシンジは初号機をその場に座らせ、同化を解いた。その結果、初号機は再び沈黙し、その目は光を失った。
辺りにはまだ、常夏の強い日差しが照り付けている。
魂の込められていない初号機が暴走することはない。しかし、シンジは早い段階で初号機にS2機関を取り込むことを計画していた。使徒補食によるS2機関の取り込み――それが最も自然に見せかけられるのは暴走だった。
これを実現するためにナオコがタイミングを見計らってMAGIに干渉し、初号機とMAGIの通信を遮断する。一方シンジはそれに合わせて戦い方を変化させる。初号機の状態を外からの映像でしか確認できない発令所からはそれが暴走に見える。
――これが彼らの計画だった。
「仕上げは上々ね」
ナオコはそう言うとMAGIへの干渉を止めた。
「自爆しなかったねぇ」
「目からビームもなかったわ」
「N2作戦が中止されたおかげで、自己進化が進まなかったということかしら?」
「獣みたいなシンちゃんもいいわぁ♥」
使徒殲滅に続き、暴走していると見られた初号機の沈黙が確認されると、発令所にはようやく安堵の空気が流れ、落ち着きを取り戻した。
「あっ、初号機との通信が回復しています」
戦闘の最中、一時的に初号機からの情報が得られなくなっていたため、オペレータたちは主モニタの映像を注視していた。その結果、初号機からの情報が復活していることに彼らが気付くまで、多少の時間が掛かった。
「パイロット、生存を確認」
その後、初号機を地上に残したままシンジはエントリープラグから救出され、病院で検査を受けた。一方、初号機はシンジの救出を待ち、重機によりケージに戻された。
「シンジ君、お疲れ様。検査の結果、異常はないみたいだけど気分はどう?」
病院での検査の後、シンジはリツコの研究室にいた。
「普通です。少しお腹が空きました」
「それじゃ、いくつか質問があるから答えてくれるわね?」
「はい」
「まず、エヴァに乗った感想は?」
「気持悪かったです。あのLCLと言いましたっけ……」
「あぁ、ごめんなさい。あれは現在の私たちの力ではどうしようもないのよ。他には?」
「自分の体が大きくなったように感じました」
「違和感みたいなものは?」
「別にありません。自分の体そのものという感じです。ものすごく痛かったですし……」
シンジは惚けていた。
(やはりシンクロ率は関係ないって事か)
リツコはフィードバックに関する話題には触れず、最も興味を持っている内容に話を変えた。
「あなたはATフィールドを展開したわ。どうやって展開したか解る?」
「ATフィールドってなんですか?」
「使徒の攻撃から身を守っていた時にエヴァが展開していた、あるいは、エヴァの攻撃が使徒に届かなかったときに使徒によって展開されていた壁のようなモノ。それがATフィールドよ。あなたのが人類によって展開された史上初のATフィールドだったの」
「あぁ、それなら……。勝手に出たんだと思いますよ。自動的に守られてるんだと思ってました」
シンジは最初から自らの意志によって展開していたことを誤魔化すために、予定通りの嘘を吐いた。
(危機を感じたときに自動的に展開される? それなら、これまでの実験で展開できていなかったことにも説明がつくか……)
それまでATフィールドの展開が実験で確認されていなかったことには理由がある。ファーストチルドレンであるレイの場合は実際に展開の仕方を知らないからであるが、セカンドチルドレンである惣流アスカ・ツェッペリンの場合はATフィールドを使いこなせるという事実がある。しかしながら、早くからエヴァンゲリオンに関する研究が進んでしまうと約束の時のエヴァシリーズとの戦いが苦しくなる可能性がある上、あまりに何でも上手く出来すぎたら、より一層モルモット扱いされかねないとシンジたちに脅されていたため、アスカは自らが弐号機を使ってATフィールドを展開できる事実を隠し続けていた。
「最後の質問よ。何故使徒を食べたの?」
「あれは僕がやったんじゃないですよ。途中からは、エヴァが勝手に動くのを見ていただけですから。あの時はもう何の感覚も残ってませんでしたし……もしかして使徒って美味しいのかな」
(やっぱり暴走なの?)
リツコとの対談の後、シンジは司令執務室でゲンドウやコウゾウと向かい合っていた。
「やあ、今日はあなたに話があってきたんですよ。六分儀さん」
シンジは切り出した。
「何!」
「裁判所から通達が行っているはずですが、僕の親権は既に碇シンタロウに移っています。ですから法的には、あなたは僕の遺伝子提供者に過ぎないということになります。それと、あなたは碇から勘当されています。今後通名として碇を名乗るのは勝手ですが、京都の碇家とは何の繋がりもないと言うことになります。まあ、これは単なる確認です」
「ふん」
それを聞いたコウゾウは思わずゲンドウに視線をやった。
「それで、六分儀さん。聞きたいのは母のことです。母は何故死んだんですか? 10年前の実験では体がなくなるなんてことにはなっていなかったはずなのに、祖父からは遺体なしで葬儀をしたと聞いてます」
「まさか君は、覚えているのかね? ああ、失礼。私は副司令をやっておる冬月という」
「良く覚えてますよ。冬月先生。あの実験の後、六分儀さんは気を失った母に張り付いてました。ですから遺体がないというのが解せないんですよ。もしかして、失敗したあの実験の後に、母の体が失われるような別の実験でもして母を殺したんですか?」
「ふん。お前が知る必要のないことだ」
「流石に、自分の犯した殺人の様子となると被害者の息子にも話せませんか。残念です。まぁ、今後会うこともないでしょうから母の死の真相を知ることについては諦めます。10年も経った今では何の証拠も残ってないでしょうからね。あ、それから今日の報酬については後日口座を知らせますから、そちらに振り込んでください。それじゃ」
そういうと、シンジは部屋を出ようとしたが、コウゾウが彼を引き留めるように声を掛けた。
「シンジ君。君にはまたエヴァに乗って貰わなければならないのだよ」
「何故ですか?」
シンジは予想通りだと思いながら、答の解りきっている質問を返した。
「使徒はまだ来る」
ゲンドウは肘を立てて両手を組み口元を隠すいつものポーズを崩さないまま、端的に答えた。
「何故使徒が来るからと言って僕がエヴァに乗る必要が? きちんと訓練されたパイロットを用意すべきでしょう? いつまで僕にしか出来ないなどと言う嘘を吐き続けるんですか?」
「使徒は倒さねばならん」
ゲンドウの返答はやはりいつもの通りで、自分の都合だけを押し付けるものだった。
「何故ですか?」
「サードインパクトが起こる」
「何故サードインパクトなんて話に? 使徒が隕石を呼ぶとでも言うの?」
「セカンドインパクトは使徒が起こしたのだよ。隕石とは関係のないことなのだ」
コウゾウはゲンドウだけに話を任せてはいられないとばかりに説明を加えた。
「何故そんな話に? 大質量隕石が南極を襲った。教科書にもそう書いてあります。小学生でも知ってることですよ」
「ふん。お前が知る必要のないことだ」
「碇、いや六分儀……」
コウゾウは窘めるようにゲンドウに一瞥を与えた後、改めてシンジに向かい言葉を続けた。
「シンジ君。事実というものは往々にして隠蔽されるモノなのだよ」
「さっきの使徒はサードインパクトを起こす素振りなんか見えませんでしたが? どうやって起こすんですか?」
「ふん。お前が知る必要のないことだ」
「信じる必要がないということですね。まあ、いいでしょう。それで、何故使徒がまだ来るからといって僕がエヴァに乗る必要が? これから15年間訓練でもして次の使徒に備えろと? 嫌ですよ」
「使徒は直ぐ来る」
「何故そんなことが解るんですか?」
「ふん。お前が知る必要のないことだ」
「では、何故僕がエヴァに乗れる、いや……僕にしか乗れないなんてことが解るんですか? 六分儀さんとはこの10年会ったことすらないんですよ? 本当は誰にでも出来るんじゃないですか? 例えば六分儀さん本人とか。あ、何だ怖いのか。何て臆病な……」
「ふん、くだらん。お前にはできて私にはできない。理由など知る必要はない」
「またそれですか。それじゃ何でエヴァはここにあるんですか? 使徒がここに来なかったらあんなひも付きのお人形がいくつあったって意味ないでしょう」
「ふん。お前が知る必要のないことだ」
「秘密、秘密、秘密、秘密。判断に必要な情報をまるで与えられずに、ただ信じろと? 僕だって理をもって頼まれれば聞く耳くらいは持ってるつもりですが……馬鹿馬鹿しい。帰ります」
シンジは今度こそ振り返らずに部屋を出た。
コウゾウは引き留めようとしたが、ゲンドウはシンジが出ていくのを、ただ黙り身動きもせずに見送った。
「おい六分儀。いいのか?」
「問題ない。いざとなれば特務権限で強制徴兵です。それにどうせ初号機は凍結です。今、子供の駄々に付き合う必要などないのですよ。冬月先生」
「駄々を捏ねているのは、むしろお前の方だよ……」
話は終りだとばかりに部屋を追い出されたコウゾウはひとりごちた。
ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぴっ
使徒襲来の翌日、そこでは笛の音による指示を受けながら重機が前日の戦闘の際に破壊された初号機の頭部装甲を運び出していた。
『昨日の特別非常事態宣言について……』
ぷっ
『政府は……』
ぷっ
「発表はシナリオB─22か……。またも事実は闇ん中ね」
作業現場に設けられた仮設テント内でテレビのチャンネルを次々切り替えながら、余った片手を使い唯一露出した自らの顔をうちわで扇ぎつつ、ミサトは言った。ミサト自身を含め、そこに存在する全ての作業員は全身を守る防護服を身に纏っている。
「広報部は喜んでいたわよ。やっと仕事ができたって……」
ミサトの軽口に答えるのはリツコであった。
「うちもお気楽なもんねぇ」
「どうかしら? 本当はみんな怖いんじゃない?」
「当たり前でしょう」
現場での作業を終えた後、ミサトとリツコは兵装ビルの整備が進む様子を観察していた。その直ぐ側にはミサトの自家用車である目の覚めるような鮮やかな青色のボディを持つルノー・アルピーヌA310が駐められていた。
「エヴァとこの街が完全に稼働すればいけるかもしれない」
「使徒に勝つつもり? 相変わらず楽天的ね」
ミサトの楽観的な言葉に水を差すリツコ。この二人の関係は二人が出会った大学時代から変わらぬままで続いていた。
「あら、希望的観測は人が生きていくための必需品よ」
「そうね。あなたのそう言うところ。助かるわ……。でも問題は山積みよ。シンジ君も昨日の内に帰ったし……」
「何ですって?」
「初号機は凍結。同じく零号機も先の暴走事故の結果、凍結中。下手したらドイツから弐号機が届くまでエヴァは戦力として数えられないわ」
食って掛かるミサトに対し、リツコは現状を淡々と述べるだけだった。
「何でそんなことになるのよ!」
「上の考えることなんか私に解るわけないでしょ」
周囲に何も存在しない完全な暗闇。そこは参加者がホログラフィックディスプレイを使って一堂に会する仮想会議場であり、現在は人類補完委員会、通称委員会による会議が行われていた。参加者はただ一人ゲンドウを除き、全てが鷲鼻、そして金色もしくは茶色の髪を持つ欧州系の白人種ばかりであった。
「使徒再来か」
「あまりに唐突だな」
「15年前と同じだよ。災いは何の前触れもなく訪れるものだ」
「幸とも言える。我々の先行投資が無駄にならなかったという点においてはな」
「そいつはまだわからんよ。役に立たなければ無駄と同じだ」
「左様。今や周知となってしまった使徒の処置。情報操作。NERVの運用は全て適切かつ迅速に処理して貰わんと困るよ」
「その件に関しては既に対処済です。ご安心を」
それまで黙って会議の進行を聞いていたゲンドウが言葉を発した。
「本当にその通りならいいのだがな……」
委員会のメンバーは、特に情報操作は上手くいかないであろうことを認識していた。既に彼らの思惑とは外れ、それがアンダーグラウンドネットワークの世界の話であるとはいえ、かなりの情報が流れてしまっている。
「しかし、六分儀君。NERVとエヴァ、もう少し上手く使えんのかね」
「零号機に引き続き、君らが初陣で壊した初号機の修理代。国が一つ傾くよ」
「聞けば、あのおもちゃは、君の息子に与えたそうではないか。子供に捨てられた親が、今更ご機嫌取りの積もりか?」
「それだけではない。エヴァに生まれ出るはずのないS2機関。まさか斯のような方法で自ら取り込むとは……」
「シナリオとは大きく違った出来事だな」
「5分から無限」
「S2機関を自ら搭載し、絶対的存在を手にした」
「エヴァンゲリオン初号機」
「我々に具象化された神は不要なのだよ」
「神を造ってはいかん」
「まさかあれも、六分儀君の差し金かね」
「あの時、初号機は我々の制御下にはありませんでした。ご心配でしたらMAGIの記録をお調べ下さい」
「情報操作は君の十八番ではないか」
「初号機については凍結処置を行います。つきましては零号機の凍結解除、そして弐号機の本部への輸送の許可を早急にお願いします」
「時に六分儀君。何故サードチルドレンを解放した? 聞けば彼はドイツのセカンドチルドレンと同じだと言うではないか。今後も続く使徒襲来への駒としてこれ以上のものはないよ」
「彼は金さえ与えておけば動くのだろう? 六分儀君の血ということかな」
委員たちはケージでのシンジとゲンドウのやり取りに関する完全な情報を手にしている。これはその事実を示唆する言葉だった。
使徒戦終了後の初号機のコアパルスに変質は確認されなかった。その事実は、様々な思惑を持って解釈された。
使徒再来、そしてシンジの初号機への搭乗は全て、彼らがシナリオと呼ぶモノに記述された通りの出来事であったとはいえ、委員たちが真に恐れを抱いていた事態――初号機の覚醒と解放には至らなかった。すなわち彼らは、初号機は今でも完全にパイロットの制御下にある――少なくともパイロットが離れさえすれば、初号機の意識も同時に喪失する状態にあると考えていた。そして、サードチルドレンがセカンドチルドレンと同様に、コアの魂に影響を与えずにエヴァンゲリオンを操る真の適格者であるなら、初号機とサードチルドレンの組合わせを対使徒戦の駒として使うことに対する危惧も想定していたものより軽減される。そこに込められた人間の魂が目覚める心配さえなければ、S2機関すなわち生命の実を持つにせよエヴァンゲリオンは人形に過ぎず、それは彼らの考える神ではない――これが彼らの結論だった。
一方のゲンドウは、パイロットであるシンジに危機さえ訪れれば、いつでも初号機は覚醒し解放に至る。初陣での初号機の姿がそれを証明している、そう確信していた。そのため、可能であれば初号機は約束の日まで温存する――それがゲンドウの思惑であった。
この会議の場では異なる思惑を持つ者同士の綱引きが行われているのだ。
「人、時間、そして金。君らは親子揃って幾ら使ったら気がすむのかね?」
「サードチルドレンへの報酬には六分儀君のポケットマネーが当てられるそうだがね」
それは委員会による決定の通達であった。
「それに、君の仕事はそれだけではあるまい。人類補完計画。これこそが君の急務だ」
「左様。その計画こそがこの絶望下における唯一の希望なのだ……我々のね」
「いずれにせよ。使徒再来における計画スケジュールの遅延は認められん。零号機と弐号機については許可を与える。予算については一考しよう」
両目を完全にバイザーで覆い隠し全身がでっぷりとした服装で固められた男、それまで完全に沈黙を守っていたその場の議長であるキール・ローレンツが、予め決められていた通りの結論を述べ、会議の終了を促した。
使徒再来が確認された以上、使徒の目指すNERV本部には戦力が必要であり、エヴァンゲリオン弐号機が本部に移管されることは予め決められていたことである。また、一時凍結処理がなされている零号機の凍結解除も当然の処置であった。彼らは使徒の脅威を過小に評価することはなかった。
「では、後は委員会の仕事だ」
「六分儀君。ご苦労だったな」
参加者のホログラムはただ一つを残して一斉に消え、ゲンドウの参加すべき会議は終了した。
「六分儀。後戻りはできんぞ」
最後に残ったキールのホログラムもそう言い残して消えさり、その場には生身のゲンドウだけが残された。
「解っている。人間には時間がないのだ」
新世紀エヴァンゲリオンは(株)ガイナックスの作品です。