新世紀エヴァンゲリオン

〜せめて人間らしく〜

第一部

第六章 干渉


「第二次遷都計画承認さる……か」

 碇シンジ、渚カヲル、山岡ルナ、リナの四人が朝食後の食堂でのんびりとお茶を飲んでいるところへ、新聞を読んでいた碇シンタロウの声が掛かった。

「戦場になることが分かっているのに……」

「人類最後の砦とやらを作る資金集めのためのカモフラージュというわけだからねぇ」

「政治家連中は使徒再来など知らされておらんからな」

 セカンドインパクトを境として、今では往時の権勢を失った没落商家の一つに過ぎない碇家とはいえ、シンタロウは往時をも知る当主であった。

 次期当主候補すなわちシンジの保護以来、碇家周辺の士気は上がり、裏では既に捲土重来を目指して様々なものが動き始めている。シンタロウ自身も途切れて久しかった政界や財界との糸を再び紡ぎ始めており、その過程で第二次遷都計画の裏なども知ることとなった。

「戦場になるのが第3新東京市という事態は避けられないって事か」

 住人たちには事情を伏せたまま、敢えて戦場に人を住まわせる。神たる力を持ってしても人間たちの営みを止めることはできない。

(このまま手をこまねいて、ただ見ているしかないのか……)

 シンジは己の無力感にさいなまれていた。しかし、全てが神の都合に合わせて創られたモノとしてではなく、人間が人間の手によって歴史を積み重ねていく世界としてこの世界を創り出した以上、人間としては幼児に過ぎないシンジたちには手の出しようがなかった。神などと言えども人間のルールの上で動く限り、例えばSEELEのような影響力を無くしては、力の振るいようがないのだ。

「しんちゃん、あそぼ!」

 部屋の空気を変えたのはリナだった。


「それじゃねー、し・り・と・りのり!」

 言葉を覚えるのがうれしくて仕方がないリナの最近のお気に入りの遊びはしりとりだった。この遊びはシンジたち四人の面倒をみているヨシノが教えたものであり、それまで四人ともしりとりをして遊んだ経験がなかった。

「リナ。可愛いよ、リナ」

 指差して指名されたシンジはいつものお約束通りに続けた。リナは満面の笑みを浮かべている。このお約束を違えるとリナは途端に不機嫌になるため、実質的にゲームが始まるのは次からである。

「り・なのな!」

 次に指名されたのはカヲルだった。リナがこの場を仕切るのはいつものことだった。

「鍋。鍋はいいねぇ。鍋は心も体も暖めてくれる。日本人の生み出した――

「むにゃむにゃのきわみだよ。そうはおもわないかい? やまおかるなくん」

 カヲルのセリフを途中で奪い取り、続きを真似する。それもリナのお気に入りだった。

「紅ズワイ蟹。おいしいもの。皆が静かになるもの」

 ルナは碇の家に住み着いて以来、蟹が大好物になった。

「んじゃねー、にんぎょう。りなはねっ! おにんぎょさんがだいすきなのー。に・ん・ぎょ・うのう!」

 リナの人形好きは誰もが知っている。なにしろ四人が生活している部屋には人形が数えられないほどに置かれている。一方、ルナは人形が嫌いだった。しかし、今ではただ一つだけお気に入りの人形がある。人型汎用抱きまくら、その初号機――それはシンジの手作りのものだった。神がエヴァ初号機に似せて作った抱きまくら、それがえば初号機だった。

「梅干し。セカンドインパクトの前は紀州の梅が有名だけど、今はどこで作っているんだろうね……」

 セカンドインパクトで地球の地軸が変化した結果、日本は四季を失い、終わらない夏が続いている。梅の花咲く季節も失われているため、日本での梅の栽培は容易でない。シンジたちは意識していなかったが、2005年のこの時点では、漬けられたままセカンドインパクトを耐え抜いた極少量の梅干しが出回っているだけであり、庶民が気軽に手を出せる食品ではなかった。アジア地域での梅干しの生産が始まり、日本に輸入されるようになるまでには更に数年の時間が必要であった。

「島。島はいいねぇ――

「むにゃむにゃのきわみだよ。そうはおもわないかい? やまおかるなくん」

 カヲルのセリフは極めて早期に割り込まれた。シンジはカヲルがどう続けるつもりだったのか気になって仕方がなかったが、こうなっては確かめる術もない。

「マギ。世界初の人格移植OSを搭載した第7世代有機コンピュータ」

「ね、まぎってなあに?」

 ルナは意識的にか無意識の内にであるか定かではないが、四人のしりとりにおいて食べ物に関する言葉を挙げることが多い。次に多いのがNERVでの記憶にある言葉であった。

 シンジが初号機人形を創るきっかけとなったのもルナの「エヴァ」という言葉に対する、リナの無邪気な質問だった。

 2006年9月のある夜、竣工式を数日後に控える京都駅に程近いとあるインテリジェントビルの一室、地下駐車場よりも更に地下深くに位置するその部屋に、シンタロウ、シンジ、ルナ、リナ、カヲルが集まっていた。

 碇商事新本社ビル。シンタロウやその周辺の人間にとりそれは碇家再興の拠点となるべき存在だった。

「随分大きな部屋ですね。これだけの広さがあれば十分です」

 シンジはそう言うと皆を後ろに下がらせた。

すとっ

 瞬きをする間もなく、そして余りに呆気なく、そこに巨大な物体が現れた。三つの箱形の筐体を放射状に並べ、それぞれがネットワークで互いに接続されたそれこそはMAGIだった。

 現時点では基礎理論すら完成しておらず、提唱者である赤木ナオコ博士の頭の中であっても、その完成形は描かれていないであろうスーパーコンピュータ。それをシンジは再現して見せた。

「リナ、これがマギだよ」

「まぎってなあに?」

「去年しりとりの最中に訊いたよね。あれだよ。世界一の凄いコンピュータだよ」

「りな、そんなのわすれちゃったー」

 当初シンジはリナの無邪気な質問に答えるためだけにMAGIを創り出そうとしていた。しかし、物が物だけに場所を取るし、その後捨てるのも一苦労であることは間違いない。そして、せっかく創るのなら使えるようにすべきだというカヲルの意見でシンタロウに相談した結果、この場所が準備された。

 当時建設中だったそのビルの設計は変更され、地下駐車場を一フロア分減らし、MAGI設置のための空間が用意された。また、ビルの最上階に設置される会長室へと到達可能な関係者専用エレベータ以外ではその地下フロアへの出入りもできないよう、他のエレベータの仕様も変更された。

 シンジは続けて、端末をいくつかとネットワーク接続に必要な物を適当に創り出し、全てを接続した。それら全ての知識は神の力を手にした時に自然に蓄えられた物だった。

「じゃあ、電源を入れてみよう」

ぶうーん

 電源を入れた途端、室温が数度上がった。

「これでは廃熱が追い付かないかもしれないねぇ」

 カヲルの心配を他所にシンジは端末に向かった。

(あれ?)

「碇君どうしたの?」

 それまで黙って見ていたルナが、突然動きを止めたシンジに声を掛けた。

「IDとかパスワードってどうなるんだろうね?」

 中身がなければコンピュータはただのオブジェに過ぎない。シンジはそのことについて何も考えていなかったことに突然気付いたのだった。

「NERVのではダメなの?」

 というルナの言葉に反応して、シンジは過去の自分のIDとパスワードを入れてみることにした。二度目の人生では様々な情報を入手するためにMAGIの使い方もある程度マスターしていたため、自分のアカウントが用意されていることを知っていた。一度目と三度目の人生では一度も触れることはなかったが、その時も用意だけはされていたことを今では知っている。

「使えるよ。不思議なこともあるもんだね」

 手が小さいため思うようにはキーボードを操作できなかったが、シンジは昔の習慣通りの手順を続けた。

 そして――

「お祖父様。大変です」

 そのMAGIには2016年――サードインパクト時の状態が再現されていた。

 シンジの創り出したMAGIが本格的に稼働を始めるまでには数週間の時間が必要だった。サードインパクトがシンジに与えた知識の中には、赤木リツコのIDとパスワードの情報なども当然含まれていたため、シンジはこれを用いてMAGIの設定を変更した。

 NERV本部のMAGIは第3新東京市の市政からライフラインの制御に至るまで、街のあらゆる事象を一手に引き受けていたと言っても過言ではない。そのため、そのままでは、例えば第3新東京市の信号機の制御など、京都の碇商事本社ビルでは不要かつ危険な動作を起こしかねない。もっとも、現実にはまだ第3新東京市が存在しない上、将来MAGIの制御下に置かれる様々な物もMAGIの制御下に置かれた状態には設定されていないことから、近日中に問題を起こす可能性は限りなく低い。

 結局、各種情報をネットワーク経由で集める機能のみが生かされ、それ以外の機能を全面的に停止させた状態でMAGIの稼働は始められた。このMAGIは特に第3新東京市の市政に活かされるべき情報として、世界情勢や市況、ネットワーク経由で配信されたニュース記事などの各種情報を、2010年の稼働開始以来、休むことなく集め続けてきた代物である。

 ――未来を知るMAGI。

 いずれにせよMAGIの取り扱いには細心の注意が要求され、当初の予定であった碇商事の情報部門による運用は白紙に戻された。

 本来、この時代には存在しないものであるし、一ユーザとして以上のMAGIに関する知識は現時点ではシンジが持っているのみである。その知識にしても、現時点でのシンジが直ぐに活かせるのは、既にMAGIに用意されているプログラム類の設定方法や使い方程度のものであり、新たなプログラムを作り出す能力までは持ち合わせていない――言葉がわかるだけでは文学が書けないのと同じことである。


 その後、碇家の関連企業は2010年の時点で上場廃止されている企業の株式の処分を急ぐと共に、現時点に比べて著しく成長している企業の株式を買い集めるなどのインチキをして資産を稼いだりもしたが、それはシンタロウとシンジのみが知ることだった。

 冬月コウゾウは差出人が「碇ユイ」となっている手紙を自宅で受け取って以来、その意味を考え続けていた。

 手紙の内容は『パスワードはNERV』という一行だけであった。


 それから更に数日後、京都大学時代の元上司である男から連絡があり、彼は休暇を利用して京都へと向かった。

「冬月君。最近はどうだね?」

「下らない雑用ばかりやらされてますよ」

 その日、既に大学教員を引退していたコウゾウの元上司は京都大学に程近い小料理屋にコウゾウを呼び出していた。

 昔話や世間話が一段落したところで元上司は大きめの封筒を取り出した。

「実はね、こいつが大学の方に君宛で届いたらしいのだが、君の連絡先を知っているのは今では私だけということになっているらしくてね……」

「そのために、わざわざ? それはどうもご迷惑をお掛けしました」

 コウゾウは恐縮しながら封筒を受け取った。

「いや何、私も既に引退の身の上で暇だけはいくらでもあるからな。たまには昔話もしたくなる。それより、君の方の仕事の邪魔ではなかったかな?」

「いえいえ、こういう機会でもありませんと休暇も消化できません。いい骨休みと思ってこの辺を少しぶらついてから帰るつもりですよ」


 コウゾウは宿の部屋に落ち着くと、手渡された封筒を開いた。

 封筒には「まごころを、君に」と題された一枚のDVDが封入されていた。

 コウゾウは持参していたノートパソコンを使い、同封されていたDVDを試聴しようと試みたが、映像にはパスワードが掛けられていた。

 映像は特務機関NERVのロゴマークで始まり、その内容はと言えば、サードインパクト時のNERV本部第二発令所の様子だった。

かつ、かつ、かつ

 GEHIRN本部の薄暗い通路を一人の、痩身金髪の女性が歩いている。

「誰だ?」

 普段通りに通路を巡回していた警備員がその人物を見とがめ、懐中電灯の光を当てた。

「技術開発部、赤木リツコ。これID。発令所の区体ができたそうだから見に来たんだけど……迷路ね、ここ」

 女性は突然上半身を照らしつけられたにも関わらず、毅然とした態度を崩すことなく自らの証を立てた。彼女こそが2008年4月付けでGEHIRN本部に入所し、E計画を担当することとなった赤木リツコその人であった。

「発令所なら、今、所長と赤木が見えてますよ」

 納得した警備員が現在の様子を伝えると、リツコはそれまでと変わらぬ足取りで、一人先へと進んだ。


 いずれ発令所となる区体には一組の男女が在った。

 男性は無造作に設置された机に向かい椅子に腰掛け、両手を口の前で組んでいる。

「本当にいいのね?」

「ああ、自分の仕事に後悔はない」

「嘘! ユイさんのこと、忘れられないんでしょ? でもいいの、私は」

 男性の背後に立っていた女性は男性の肩口から顔を近付け、やがて二人の影が一つになった。

 リツコはその時物陰から、自分の母親である赤木ナオコとGEHIRN所長碇ゲンドウの様子を物言わず見つめていた。

「シンジよ。お前は今日から榊シンジだ」

 小学校への入学を数日後に控えたある日、突然シンタロウに呼び出されたシンジは、シンタロウのその言葉に困惑を隠せなかった。

「なぜですか?」

「今はまだ知らなくて良い」


「しんちゃーん。おじいちゃんなんだって?」

 シンタロウの元から戻ってきたシンジに声を掛けたのは、好奇心丸出しのリナだった。リナはシンジの腰を両手で捕まえると、周りをくるくると回り始める。

「お前は今日から榊シンジだ、だってさ。何が何だか全然わからないや」

 一度目や三度目の人生でのシンジであれば、「僕は要らない子なんだ」などと塞ぎ込むような事態ではあったものの、自らが神であることを認識し、いずれは人間社会から一歩離れたところへ引き籠もることを初めから検討しているシンジにとり、それは多少の困惑を与えただけだった。

「碇君も今日から名前を変えるのね。そう、いつかの私と同じ。イメチェン。小学デビュー」

 話を聞いたルナは何やら連想ゲームを始めたが、その表情には嬉しげな色が見える。

「ルナ君。シンジ君はもはや碇君ではないと言うことだよ。君はそれを知った方がいい」

 カヲルの指摘に、ルナは顔色を変えてぶつぶつ言い始める。

「碇君じゃない。碇君じゃない。碇君じゃない……」

「でもでも、しんちゃんはしんちゃんだもーん。もんだいないわ」

 最後にルナの物真似を織り混ぜつつ言うリナは何も気にしていない様子であった。ルナはそれまで碇という姓を特に意識したことがなかったからだ。

「あのシンタロウ老の考えることだから、きっと何かあるんだろうねぇ。リリンの考えることは僕には本当にわからないよ」

 いつもの微笑を浮かべながらひとりごちるカヲルだった。

「あれがGEHIRN本部だよ」

 その日ゲンドウは、空色の髪に紅い瞳、アルビノと呼ばれる色素の存在しない真白の躰を持つ幼い少女を連れていた。

 連れられている少女は、感慨深げに窓の外を眺めていた。彼女はそれまで、自らの躰が作られた人工進化研究所第3分室から外に出ることはなかったのだ。

「所長、おはようございます。お子さん連れですか? あら……でも、確か男の子……」

「シンジではありません。知人の子を預かることになりましてね。綾波レイと言います」

 二人に気付いたナオコが声を掛けると、ゲンドウは少女を紹介した。

「レイちゃん。こんにちは」

 腰を折り、目線を下げて綾波レイに挨拶したのはリツコだった。

(この子……。誰かに……ユイさん?)

 ただ一人ナオコだけは、レイとユイの相似を不審に思っていた。


「綾波レイに関する全ファイル抹消済――白紙だわ。……どういう事?」

 自らの研究室で一人になったナオコは、出会ったばかりのレイについて調べていたが、謎は深まるばかりだった。

「碇。赤木君のこの報告書は見たか?」

 新たにE計画担当技術者として就任したリツコから最初に提出された報告書は、エヴァンゲリオン初号機のコアパルスが消失、あるいは、計測できないほどに微弱になっていることを説明するものだった。それを受けて善後策を立てる必要を感じたコウゾウは、ゲンドウの執務室を訪ねていた。

「あの実験以来、じきに4年。これまでE計画の担当者はいなかったのです。ユイが眠りにつくのも当然です」

「だと、いいがな。ユイ君は本当に初号機にいるのかね?」

「問題ありません」

 ゲンドウはいつものように椅子に座り、肘を机の上に立て、両手を口の前で組むポーズを崩すことはなかった。

 ドイツのエヴァンゲリオン弐号機にはカヲルの干渉の結果、人の魂は宿っていない。また、コアの魂を必要としない真の適格者、ドイツ支部の誇るセカンドチルドレン、惣流アスカ・ツェッペリンが発見されていたため、今後とも魂が込められる予定はない。本部内のエヴァンゲリオン零号機にも人為的に魂を込められた実績はないため、比較対象としては不適切であった。

 結果としてゲンドウは、現在の初号機のコアに魂など存在してないという真実を見過ごした。


「シンジ君の方はどうなっている。碇本家で発見されたのだろう?」

 コウゾウは話題を変え、もう一つの懸案についてゲンドウを問うた。

 最近になって、碇家は裁判所に対し、シンジの親権の委譲に関する申し立てを行った。その結果、ゲンドウらがシンジの居所を掴むこととなったが、それはシンタロウの思惑通りであった。

「諜報部の報告によれば、誘拐犯と身代金の取引が成立して碇の老人が引き取ったそうです」

 誘拐云々という話は、シンジが碇家に引き取られた直後に碇家の使用人の間に出回っていた噂だった。それはシンタロウの意を汲んで意図的に流されたものであり、真相を知る極僅かの人間以外はそれを信じていた。

「シンジ君がいなくなって直ぐにあの家族を処理したのは、拙速だったのではないか?」

 ゲンドウはシンジが密かに碇家へと脱走した直後、自らの諜報部の監視をも掻い潜っての事態であったことは棚に上げ、シンジの保護を怠ったとして、預け先の一家に諜報部の一部を差し向けていた。その結果シンジの言う先生一家は既にこの世には存在しない。

「人間万事塞翁が馬というではありませんか。シンジの居所はわかったのです。問題ありません」

「しかし、何故今頃になって碇家との取引などということになったんだ?」

「シンジはユイ似です。誘拐犯も情が移ると言うこともあるのでしょう。それにようやくシンジに繋がる金蔓を見つけただけということも考えられます」

「情が移ったものを、金の臭いで手放す。私には信じられんよ」

「背に腹は替えられない。そういうことです」

「それだけではない。お前は榊シンジと名乗るこの少年、気にはならんのか?」

 コウゾウは一枚の写真が止められた別の報告書を取り出した。

「碇の家にはもう随分と前から住み着いているようです。シンジを手にした以上、用なしとみて放置されるか、せいぜいシンジの影武者扱いでしょう」

「影武者かね?」

「シンジが誘拐されたのは事実です。臆病な老人の考えそうなことです」

 親権委譲の申し立てが最近になって行われた結果、ゲンドウたちはシンジが碇家に引き取られたのも最近であると誤解していた。その上、書類上では、シンジはこれまでずっと榊シンジとして生活していた。もっとも保育園や幼稚園には縁がなかったため、小学校に上がったこの春までの期間、榊の姓を意識していたものは一人も存在していなかった。

 その結果、以前から碇の家に住み着いていた榊シンジと最近ゲンドウらに発見された碇シンジが同一人物であることを知る者はシンジ周辺の極僅かの人物に限られることになった。

「もうそろそろだね」

「ええ」

 GEHIRNが解体され、そのまま特務機関NERVへと組織換えされる時期が近いことをシンタロウ経由の情報によりシンジたちが知らされたのは、西暦2010年のことであった。

「赤木ナオコ博士はどうなるかな?」

 シンジは特務機関NERV発足直前にナオコが原因不明の自殺を遂げたことを知っていた。

 一方、ルナは一人目のレイがナオコに絞め殺されたことを知っていた。ゲンドウに唆されるままにナオコを挑発するような言葉を繰り返したことが原因だった。

 一人目のレイが絞め殺された時期についてのルナの記憶は曖昧であり、この二つの事実を結び付ける根拠はなかったが、一人目のレイが絞め殺されるのを黙って見過ごすつもりも彼らにはなかった。

 ナオコはリツコと共に完成したばかりのMAGIを見つめつつ語り合っていた。

「MAGI・MELCHIOR(マギ・メルキオール)、MAGI・BALTHASAR(マギ・バルタザール)、MAGI・CASPER(マギ・カスパー)。MAGIは三人の私。科学者としての私、母親としての私、女としての私。その三つがせめぎ合っているの」

「三人の母さんか。後は電源を入れるだけね。……今日、先帰るわね。ミサトが帰ってくるのよ」

「そうそう、彼女GEHIRNに入ってたのね。確か、ドイツ」

「ええ、第3支部勤務」

「じゃ、遠距離恋愛ね」

「別れたそうよ」

「あら……お似合いのカップルに見えたのに」

「男と女は判らないわ。ロジックじゃないもの」

「そういう冷めたところ、変わらないわね。自分の幸せまで逃しちゃうわよ」

「幸せの定義なんてもっと判らないわよ。さてと、飲みに行くの久しぶりだわ」

 その後、二人は口々に「お疲れ様」と声を掛け合い、その場で別れた。

10

「何か御用? レイちゃん」

 リツコを見送った後、ナオコが自分の帰り支度をしているところへレイが現れた。

(唆されて来てみたはいいけど……)

 レイは逡巡していた。

「道に迷ったの? 私と一緒に出よっか」

 何も話さないレイの様子をみて、ナオコは親切心を出した。

(やっぱ、怖いわ……)

 レイはゲンドウに託されたナオコへの言葉を口に出来ずにいたが、外に出たいわけではないし道に迷ってもいなかったので「いい」とだけ答えた。

「でも、一人じゃ帰れないでしょ?」

 ナオコはレイが本部の中に住んでいることを知らなかった。

「大きなお世話よ。ばあさん」

 先ほどまで逡巡していたレイだったが、遂に決定的な言葉を放った。

「何?」

 ナオコは一瞬カチンと血が上ったが、子供の言うことであると落ち着いて聞き返した。しかし、一旦、汚い言葉を紡ぎ出し始めたレイの口はもはや止まることはなかった。

「一人で帰れるから放っといて。ばあさん」

「他人のこと、ばあさんなんて言うもんじゃないわ」

「だって、あなたばあさんでしょ」

「怒るわよ。碇所長に叱って貰わなきゃ」

「所長がそう言ってるのよ。あなたの事」

「嘘!」

「ばあさんはしつこいとか、ばあさんは用済みだとか」

 ナオコの顔色が更に変わったのを見てレイは言い過ぎたことに気付いた。彼女はナオコとゲンドウが男女の関係にあることに薄々気付いており、そのことに対する不快感もあってか、最初は逡巡していた言葉も最後には溢れるように口を出ていた。

 しかし、急に恐怖感が増大するのを感じたレイはその場を逃げ出すことに成功した。

「ぷっ」

 レイが逃げ出すのを見てナオコも我に返り、吹き出した。

(何もかも情報通り……ってわけなのね)

 ナオコは数週間前に一通の手紙を受け取っており、それにはMAGIが完成したらナオコはゲンドウに捨てられるだろう事や、その際『綾波レイ』がけしかけられるだろうことも書かれていた。

11

 特務機関NERVが発足したその日、ナオコは京都駅のホームに立っていた。

「赤木ナオコ博士ですね? 碇老の元へご案内いたします」

 昨夜、ナオコは手紙に書かれた連絡先に電話を入れ、相手が碇家の現当主であることを知った。相手が『碇ユイ』に連なる者であることが多少気にはなったが、何もかも知り尽しているように見える相手のからくりへの興味が勝り、結局ナオコは招待を受けた。


「お久しぶりです……というべきでしょうか? 赤木ナオコ博士」

 ナオコに最初に声を掛けたのは、意外にもシンタロウではなく、幼い少年だった。

「まさか……シンジ君?」

 ナオコは、シンジが碇家に引き取られていることを知らなかった。特に秘匿されていたわけではないが、それはあえて彼女が知らされるべき情報ではなかった。

「はい。碇シンジです」

 その後暫くの間、お茶を飲みながら世間話を交わしていたが、やがてシンジは切り出した。

「ナオコさん。全てを自分の手のひらの上で踊らせているつもりになっている人たちに一泡吹かせてみたいと思いませんか?」


 その晩、ナオコはシンタロウやシンジらに連れられてMAGIの元へ案内された。

「2016年仕様のMAGIオリジナルです」

 ナオコは自分の目と耳を疑い、言葉を失った。

 しかし、数瞬の後に我を取り戻すとあちこち探り回った。そして筐体内部に自らの筆跡による落書きを見つけると、「ぶっちゃけ、ありえなーい」などと言いその場に座り込んだ。

「もう盗んできたの?」

 多少なりとも正常な判断に基づいて解釈すると、それが可能性としては最も高いものだった。

 しかし事実は異なっていた。

「先ほども言った通り、これは2016年までの未来を知るMAGIオリジナルです」

 シンジが先程より、噛み砕いた、そして、より信じがたい説明をした。

「あなたの作ったMAGIです。触ってみてはどうですか?」

 シンジの言葉に促され、ナオコは端末に向かった。そして何の躊躇いもなく自らのIDとパスワードでアクセスに成功するとひとしきり様子を探っていた。

「確かに、2016年までの情報を装った何かが蓄えられているわ。でも2016年の状態なら、私のパスワードがそのままなんて有り得ない……」

 ナオコには、定期的に自らのパスワードを変更する習慣があった。それは常識と言って良いものだった。

「本来の歴史通りであれば、あなたは昨日から今日にかけての何時かに自殺を遂げるはずだったのさ」

 カヲルが答えた。

 昨夕、頭に血を上らせた自分がレイに手を掛けようとしたことを思い出し、手紙の件がなければ実際に手に掛けていたであろう自分も想像できた。そして、その場合自殺を選ぶ可能性は十分にあった。

 その後、暫くMAGIで戯れている内にナオコは気付いた。

「情報を集めているだけなのに、何故、こんなに頻繁に対立モードに入るのかしら……」

 それは、本来のMAGIが稼働を始めた時期に時代が追い付いたため、未来として知っている情報とリアルタイムで得られる情報に食い違いが現れ始めたからであった。

 この時点では未だシンジらの正体は知らされていなかったが、その瞬間、ナオコの将来は決した。

「タイムパラドックスに悩むMAGI? 本当に興味深いわ」


 数日後、特務機関NERV宛に一通の退職願いが届けられた。

to be continued...



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